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第三回 10月13日(木) 「地域探訪 阿寺渓谷 林業・木工業を知る」


1 阿寺

 

① 木曽山の変遷 (大桑村誌p266)

桧が経済的価値を認められるようになったのは平安時代であって、中央貴族の支配下に置かれる大吉祖庄(宗像少輔領) 小木曽庄(高山寺領)として林材荘園となっていた。

伊勢神宮・南禅寺・聚楽第・方広寺・銀閣などの造営用材はもとより、伏見・名古屋城のごとく幾多の築城材等がすべて木曽谷より伐り出された用材である。

 

 戦国時代軍事力をもって活躍できた木曽氏は、森林資源を背景として経済力に支えられていたからです。

 木曽氏十九代義昌の代に豊臣秀吉は、配下の犬山城主石川光吉を代官として木曽山と木曽川・飛騨川二川の支配に任じた。

 天下領となった木曽山は、天下統一のための大きな財力をまかなうことなり、以来木曽山と住民は、権力の具となり踏み台となってきた。

 

 慶長五年(1600)の関ヶ原後、徳川家康は山村甚兵衛を木曽代官に任じて、石川光吉の山川支配を継承させた。

 元和元年(1615)家康は、尾張藩主徳川義直(家康の第九子)に加封して、木曽山川の権益を移管した。

 寛文五年(1665)留山制度を確立し、阿寺山のうち北沢以奥を留山とし伐採を禁止した。

 厳重な統制下におかれて尾張藩直轄領として守ってきたので、一時ははげ山となった木曽山も日本三美林の一つと数えられるに至った。

 

 山林… 留山(鞘山を含む) 住民の全く利用できなかったもの阿寺山・長通山・木賊山

     巣山(鞘山を含む)  同じ

     明山…林 住民の部分的利用が許されたもの

        柴山・草山・控林・控地・控柴山・控草山など 

 ② 国有林の成立過程 (大桑村誌p283)

 明治九年から十四年にかけて「官民有土地区分取調」は、木曽の山林事情を知らない一官吏本山盛徳によって実施された。本山は五木のあるところは官有地であると決めつけこの方針を強権的に押し付け、その方針を貫き、旧明山のほとんどを官有地に編入した。

 明治十四年五月二十五日「木曽谷山地官民有区別御再調請願書」が木曽谷二十二ヵ村の戸長連署によって長野県令楢崎寛直に提出された。しかし、却下された。

 

 ③ 御料林の成立過程 (大桑村誌p285)

 明治十八年宮内省に御料局が設置された。木曽谷では隣接の民有林までも御料林に編入しようとして、二十一年四月山本宮内御料局主事補が来村して、村民を集めて懇談説諭し民林を買い上げようとした。

 これに対して、木曽谷各村々は総代を選出して、明治二十一年五月十一日から十四日までの四日間福島において、集会を開き討論を重ねた結果、所有権を確保して山林事業をさかんにしその収益を多くすることが、もっとも山地人民の利益であるとの結論に達し、お買い上げ拒否の決議をした。

 明治二十三年一月に須原・阿寺に分担区が置かれた。木曽谷御料地が世伝御料林に編入される。

 

 御下賜金制度の制定(大桑村誌p290)

 明治の地租改正にはじまる国有林の制定と御料林への移行編入の過程で「上地」という名目で無償没収された。そのために幾多の請願書を提出したがその都度却下され、集団盗伐の発生の素因となり郡下一円に拡がった。

 

 ④ 御料局野尻出張所の歩み(大桑村誌p291)

 明治三十六年七月 御料局野尻出張所を現在地に開設

   四十年  豆トロによる木材搬出に着手した。この軌道敷はすでに三十四

年に食料荷上げのため阿寺に軽便軌道が4.5km付設されていた。

   四十二年 九月に野尻駅。12月に須原駅が完成し木曽西線の開通になっ

て木材輸送も大きな変革をむかえることとなった。

 大正四年 大川狩りを全面廃止し省線輸送に切り換えることとなった。

八年       電力会社の水利使用を承認する条件としての木曽川沿岸森林鉄道

(野尻・蘭・与川・田立)37kmの敷設提供に代わる工費180万円を今後12ヵ年の年賦分納として、四線の建設を当局実施に変更承認した。

 

 ⑤ 野尻営林署の歩み(大桑村誌p298)

 昭和二十二年 御料林を農林省に移管。野尻営林署に改組。

   三十一年 鋸造材をチェンソー造材に切り換え。

   三十二年 殿でトラック輸送開始する。

   三十四年 伊勢湾台風により風倒木被害甚大、管内被害木推定30万㎥

   三十五年 野尻林道阿寺橋橋ダム補償によって完成

   四十年  阿寺森林鉄道輸送終了。

   四十一年 阿寺トラック輸送開始。

 

 

 

 

 

2 木材業

① 素材業(大桑村誌p735)

 山林地帯に位置する木曽谷では、家作・木工用木地等を生産する杣・木挽などの仕事は古くから住民の生業として重要な位置を占めていた。

 明治初めころの「木曽谷中各村産業別人口調」によると 

 須原村では、杣三十人・木挽五人

 長野村では、杣十五人・木挽二人

 野尻村では、杣三十人・木挽八人 で生業の中で最も多い数となっている。

 

 また、鉄道の開通前 素材は中津川まで馬車により運搬され、これらを扱う素材業を生業とする者もあった。

 大正年代においては、官材跡地の残木払い下げによって事業を行った。そして、

これらを運ぶ馬車運送業も大勢の者が営業していた。

 昭和五・六年ころより集材機が使われ始め、木曽式集運材法が近代化されだした。最盛期の昭和二十一年には120名を掌握した。

 昭和二十四年七月には、立ち木の払い下げを業とし、製材・木工・素材業者34名を包含した大桑村木材生産協会が設立された。

 

② 木工業(大桑村誌p737)

 杣・木挽のほか、大工・細工師・曲物師・桶職人等も多かった。

 野尻では、明治三年の書留帳に桶師の鑑札が二名に出ており、桶の製作にあたっていたことがうかがわれる。

 また、屋根板の始まりは、大正五年、栗山喜三郎が伊勢より移住、続いて、住谷民次郎が奈良より来て屋根板剥ぎを始めた。

 

③ 製材業(大桑村誌p738)

 杣・木挽が鋸や斧を使った明治初期までの手工業的生産方法にかわって、まず水力を動力とした製材機(丸鋸)を整備した製材工場が操業するようになった。

 木曽谷に導入されたのは、明治30年で、大桑村の阿寺と上松に開設された御料局の官業製材所が最初である。

 これに刺激を受けて民間業者の間でも、水力利用の製材所(製板所と呼んでいた)が各地に設けられるようになった。野尻における最初の製材所は明治40年代与川道の開通によって、伊勢金一が現在の角田の所在地に付近に創業した。




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