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第二回 9月29日(木)  「歴史探訪 おらほの中山道 野尻宿」


1 野尻宿まで

① 弓矢一里塚    「大桑村の歴史と民話」志波英夫著 「歴史の道調査書」

 慶長年間に設けられた里程標の土塚(基底部の直径11.5m、高さ3)であると伝えられている。

 この一里塚は元禄四年(1691)今井ナギ崩壊により、大島~弓矢間が通行不能になり、中山道から離れた存在になった。

 国道から木曽川寄り、上田沢沿いに桜が植えられている。

 

② 関山   「大桑村誌」「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 安政五年(1448)の夏、木曽の大洪水により、定勝寺(須原宿共)が流失、木曽氏は各所に関を設けて通行料を徴収し、その一部を定勝寺造営料にあてた。関山もその関所の一つであったと考えられる。

 

③ 振田   「大桑村誌」「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

鎌倉時代永仁六年(1298)、小木曽庄(木曽南部)は、京都栂尾の高山寺領で、地頭真壁政幹で代理人真壁光幹が着任していた。真壁氏は、常陸国真壁郷の豪族で知行地が遠く不便であったところから、小木曽庄内に知行地を振り替えたところが下保奮田(振田)である。

 

④ <振田遺跡> (埋蔵文化財発掘調査報告書より)

発掘調査 平成8(1996)1018日~123

主な遺構 平安時代の竪穴住居址、中世屋敷跡、弥生時代の竪穴住居址

   中世前期の47m四方の屋敷跡が発見された。

   屋敷跡から出土した京都系土器皿は、「かわらけ」としての性格から荘園   

   の領主と管理者たる荘司、地頭などとの関わりの一端を示しており注目される。

 

⑤ 林         「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 永禄四年(1571) 木曽義康()が定勝寺如意庵へ寄進した地所で、以来寺領であった。

2 野尻     「木曽」歴史と民俗を訪ねて 木曽教育会郷土館部編著

      「大桑村の歴史と民話」志波英夫著   「大桑村誌」

 

「野路里」「野次里」とも書いていた。藩政時代は野尻村であり、与川は享保九年(1724)まで野尻村の支村であった。

今からおよそ五百年前、野路里家定が野尻村に住み、甥の野路里右馬助家益(木曽氏 14代家賢の四男)が現在の大桑小学校付近に館を定めたと伝えられている。

しかし、家定の名前は木曽氏の系図になく、某八郎(木曽氏14代家賢の弟)が「野路里」の祖となっていることから、某八郎が家定ではないかと推測される。

 

江戸時代の野尻村は、宿と在郷(川向、上在郷、下在郷)とでできていた。

寛政三年(1791)70戸、文政七年(1824)40戸、さらに明治に入っても大火が続いたため、宿場の面影は少なくなっている。

旭町道は、明治27(1894) 本町大火後に新設された防災道路である。

 

① 倉の坂(クラン坂) 「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

林集落から上町上までのぼるクラン坂は、旅人にとって困難なところであった。この名称は、郷倉のあるところ(現在の 庭の畑)の下を通っていたことから名付けられたもので、「倉の坂」の意味である。須原恵下坂とともに最も急坂であった。

大田南畝(蜀山人)は、壬戌紀行(享和二年(1802))の中で

「まだくらきに野尻のやどりを出て、倉の坂(くつ手坂とも云う)といふ長き坂を下る。きのふの雨に道あしければ、輿かくもの足ふみあやまちて輿を落とす。危うき事かぎりなし。これより道は何がしの山荘の庭前を見る如く、石あまたある中をわけゆく。左は木曽川にして水の音たかく、右のそば道左の岸に山吹の花多し」と述べている。

<郷倉> 年貢米を収納して置く倉のある場所。享保年間以前は、「お倉」と読んだが、以降「郷倉」と呼んで、各村に一あるいは二ヶ所あった。

    須原村 場所不明

    長野村 初め、倉谷付近であったという。

    殿村  古瀬付近 中倉という辺りだったという。

② 高札場跡・いぼ石   「木曽の流れ」新井正彦著 

高さ1丈6(4)、長さ3間(4.5)、横1間(1.8)の高札が

掲げられていたが、現在はその石垣が残るのみである。そのそばに高さ2mもある「南無妙法蓮華経」の碑がある。

 その台座になっている大きな石は、イボ石と言われている。その昔、イボのできた人はこの石に触れるとイボが治ったという言い伝えがある。

 

 ③ 妙覚寺      「中山道の歩き方 木曽路を行く」児玉幸多監修

 法雲山と号する。最初は天台宗であったが、後に臨済宗となった。

 創建は不詳で、寛永年間(1624-1645)の大火により古文書・寺宝などを焼失している。

 本堂は、享保11(1726)に、観音堂は安政3(1856)に建立された。

 手入れの行き届いた庭園に、マリア観音と呼ばれる石仏がある。

 境内のチャンチン・コウヤマキは、大桑村指定重要文化財である。

 

④ 野尻のはずれ

 江戸寄り 上町 尾上進さん宅    京寄り 新田 吉村厚さん宅

 

 ⑤ 七曲り

 野尻宿の特徴で、外敵を防ぐために所々大きく曲げて作られた道。

 江戸寄りから

1 上町 奥野宅前(現在駐車場)

2 本町 木戸宅・大平屋前

3 横町 丁子屋前

4 横町 岩佐理容院・鈴木商店前

5 新田 平田宅前

6 新田 中島宅前

7 新田 古瀬屋菓子店前

 

 

 ⑥ 十七屋     「木曽の流れ」新井正彦著

 島崎藤村も泊まった旅人宿。

 島崎藤村が母縫の遺骨を父の墓のほとりへ葬るため故郷へ帰ったときの日記「木曽渓日記」「一葉舟」の中で、姉園の嫁ぎ先福島の高瀬薫夫妻と姪の四人で野尻の旅人宿に泊まったことが記されている。明治291031日から114日 17年ぶりの帰郷をしている。

 

 ⑦ 本陣跡             「木曽の流れ」新井正彦著

 旧森家は明治27年の大火で焼失した。

 この森家には、太田南畝も泊まっている。「野尻の駅の本陣森庄左兵衛門が家にとまる。ここも板ばめにして壁なし。されど109日牧野備前守といへる札あるをみれば、去年京尹より執政にめさせられし時、一夜やどしまゐらせし所なり。げに旅にしあれば、かかるいぶせき所にもやどらせ給うものかな。よもすがら雨ふる音、谷川の流れとひびきをあらそへり。いづれの時にか西の窓のともしかかげて、巴山夜雨の時をかたるべきともいはまほし。」…壬戌紀行…とある。

 「明治天皇御小休所の碑」

⑧ 脇本陣・庄屋          「大桑村誌」

 慶長5(1600) 関が原参戦、徳川秀忠は3万8千の軍をもって敵地木曽谷を通過。その先陣を山村良勝とともに務めた小笠原信濃守忠修の二男宗勝は良勝より野尻問屋半分を与えられ、姓を木戸彦左衛門と改名、代々襲名して庄屋職を兼ねた。(宝永6(1709)古谷久左衛門が、また明和4(1767)森仙左衛門が庄屋をつとめている。)

 

⑨ タケン沢         「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 館の横を流れていたので、「館の沢」「タケン沢」と名付けられた。

 

 

 

⑩ 龍泉庵    「大桑村誌」 「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 創立年月は不詳であるが、元和2(1616)頃 木曽家賢(14)の四男野尻左京助家益の末裔野尻太郎左衛門の創立ともいう。

 その後貞享3(1686)一説には元禄4(1691)野尻村の木戸彦左衛門道寿が、田畑を寄付して再建して開祖となり、妙覚寺の「徹了和尚」を招いて中興開祖した。

 境内に安永3(1774)につくられた高さ2mの地蔵菩薩の石造がある。

 

 ⑪ 荒田(新田)

 元禄年間に仁反田川の氾濫によって、田畑・街道に大被害があったことが記録されている。

 

 ⑫ 須佐男神社    「大桑村誌」 「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 祭神 建速素戔鳴尊(須佐男命) 古事記 須佐之男命 日本書紀 素戔鳴尊

    後世には、牛頭天王と同一としている。

須佐男神社は当初牛頭社と言われていた。掲額の表面に「天王」、裏面に寛文元年(1661)9月の文字が見え、正徳5(1715)の災害前のもので、遺物の中ではもっとも古いものである。

 昔、京都祇園社(現八坂神社)の僧「チョウサイ坊」という者が追放されたとき、御神体を持ち出し、中山道を下って野尻駅(今の林地区)の万納宅に宿り、当主に祇園社の御神体を奉持している話をし、祭祀を勧めたところ、万納(西尾万納と呼ばれ十七屋の先代とも伝う)は大変喜び己の所有地の山林中に祭祀したという。これが古宮の地である。

 万納は御神体を山林中に祭祀するとき「たけの沢を上がって…」とある。鎌倉中期~室町中期(12501400)頃の街道は、与川~与川道~タケン沢添い~中越辺~林~奮田~関山に通じていたので、万納は「たけの沢添いの道」を上がったと思われる。古宮の建立はこの頃だろうか。

     八坂神社(日本歴史大辞典)

     古時は祇園社と称し、祭神は祇園天神、牛頭天王であった。

     牛頭天王は素戔鳴尊と習合されていた。

 ⑬ 下在郷        「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 野尻宿に対して在郷であったゆえ名づけられている。はじめ野尻宿役人の拝領地であって、その関係で百姓のみ住んでいたが、後羅天道が開け、道路も改修され、民家も増えて今日の基をつくった。

 

 ⑭ 勝井坂・新茶屋跡       「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 下在郷国道トンネルの南木曽側に左へ下る古道の跡があり、ここと下のJRと平行している旧道との間を勝井坂といった。鉄道開通までは、難所の一つとされていた坂道であった。

 この坂道のあたまには「新茶屋」という茶屋が本家・分家と二軒あり、アンコロ餅が名物であった。

 

 ⑮ 八人石                  「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 寛文3(1663)美濃国の山伏2人と信濃国山伏8人がこの地で相争い、美濃国の山伏一人が死亡したところから、山村代官が知るところとなり、信濃国山伏8人が石の上で処刑された。これにちなんで、この辺りを八人石と名付けたという。






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