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第一回 9月8日(木)  「歴史探訪 おらほの中山道 須原宿」


1 宿場の規模  

須 原 宿 江戸から39宿目    75里12町24間 

※1里=36町=3、93km

1町=60間=109m

1間=6尺 =1、82m

上松宿  …3里9町…    須原宿  …1里30町23間…  野尻宿

              4町35間

 換算して 12、771km   4997m    7、618km

 

・宿内人別 748人 (男377人 女371人)

・惣家数  104軒 (本陣1 木村平左衛門 問屋を兼ねる

脇本陣1 西尾次郎左衛門 

庄屋・問屋を兼ねる 副業造り酒屋・山元締)

・旅籠数    24軒 (大7軒 中6軒 小11軒)  幕末38軒

・地子免許  有り 378坪余  問屋給米 無  継飛脚給米 無  

・他の補助  (尾州領) 問屋1人につき金1両2分ずつ尾州より手当あり

・宿高札場  1ヶ所 場所 宿東之入口  高1丈3尺 長さ3間 横1間

・人馬継問屋 2ヶ所 場所 本町右側・左側

       問屋2人 年寄3人 帳付2人 馬指2人 人足支配2人

・宿建人馬  25人 25疋(囲人馬なし) 大通行之際は、福島・上松・須原三ヶ宿合宿人馬にて相勤来   但 定助郷無之

  ※ 助郷…上郷・和村・殿村・長野村(伊奈川を含む)

       中三宿(福島・上松・須原)の助郷

       伊那谷(現伊那市から辰野の天竜川右岸二十ヵ村があたる)

 

・宿の特徴  此宿 享保二酉年 所替ニ付 須原宿より野尻宿迄之内道法五町

      四間相延候

  飲み水 清水

  市   毎年12月23日市立

  農業  田畑少なし、用水は宮之沢より引取

  農業以外の産業・生計 旅籠屋 茶店 諸商人 男女とも山稼ぎ

  五穀以外の産物・名物 時々の野菜

 

・須原宿より野尻宿

周辺村落  野尻宿まで間の村なし

古跡など  禅宗 定勝寺 境内に古木の桜あり  木曽家旧跡之由

       之渡船(信州伊奈郡殿村)

      左 岩出観音

街道筋   一里塚 1ヶ所   立場 1ヶ所(字長野の内平沢)

      伊奈川(幅8間程) 橋渡  (幅3間程) 橋渡

      往還山坂道

          以上 「中山道宿村大概帳」天保14(1843) 大桑村誌 

 

 

① 中山道六十九次の制定  

大桑村誌・「木曽」歴史と民俗を訪ねて・大桑村の歴史と民話

 徳川家康 慶長六年正月 東海道五十三宿駅についで制定

 六十九次のうち、木曽は、贄川桜沢より馬籠まで およそ22里(88km)

 贄川・奈良井・薮原・宮ノ越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠

 の11宿

 

② 宿駅 江戸幕府の交通上の機関として設けられたもので、公用人馬の継立、公式の宿泊・休憩などを担当する問屋場・本陣・脇本陣が置かれ、また一般通行人のための旅籠・茶屋・店舗などをもって構成された。

 

③ 街道の変遷        大桑村誌 p207

 江戸時代初期は、与川筋の道も存在したが、羅天道の開通により、十二兼・下在郷・野尻宿・林・関山・弓矢・長野旧道・大島・橋場・三瀬町・古町・須原宿・恵下・上郷・倉本と通じていた。

2 須原宿

この宿は正徳年間に洪水の被害をうけ、享保2年に現在地に移転しており、中山道六十九次の中で最も新しい年代に建設されたもので、宿場町の特色を最も典型的に現しているものとして貴重な存在である。しかし、度重なる災害、近年の改築で、むかしの宿場の面影は薄れつつある。

 

① 宿の成り立ち 

宿場の創設は、天文・弘治の頃といわれ、宿駅として制定されたのは慶長6年である。木曽十一宿では中規模の宿場である。

 

② 宿場の特色

    まず目にとまるのは広い往還(道路)である。幅は五間、山手よりに三尺の宿場用水を通している。

    京方の入口には枡形が設けられて、鍵屋の板といって道が鍵形(直角)に折り曲げられて急坂になっている。

    往還端には上水である水場(水舟)が五か所に、ほぼ等分に分散して設置されている。

    町屋は、二階出梁造りの続いた軒並みで二重に持送りを出して雁木式に軒を多く出して軒下は、雨降りの日の往来に利用された。

    「吉田屋」現「民宿すはら」は、明治2(1869)築 多少改築されているが、江戸時代の民家(旅籠)の様式を色濃く残している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③ 災害に苦しめられた須原宿

火災                風水害

明暦3(1655) 被害不明      文安5(1448) 被害不明

延宝5(1678) 被害不明      文禄4(1595) 定勝寺流失

宝永2(1705) 全焼        正徳5(1715) 宿場流失

寛延2(1749) 114戸       大正12(1923) 山津波

慶応2(1866) 110戸       昭和34(1959) 伊勢湾台風

明治22(1887) 31

 

④ 花漬け

 江戸時代の末ころから売りに出されたもので、とろろ汁とともに中山道を旅する多くの人々をに喜ばれた須原宿の名物である。

花漬けは、今のように桜漬けでだけでなく、須原宿だけの名物でもなかったが、須原の場合は、…幸田露伴の「風流仏」…という作品に書かれて有名になった。

 

高札場跡

幕府や藩からの御状目、お触れなど必ず制札として一定の場所に掲示された。

これを高札と呼び、この場所を「御判形」と呼んだ。今日も地名・家名の残っているところがある。

 

⑥ 須原一里塚跡

 慶長年間に里程標として設置されたものと言われている。村内では、須原高砂屋付近と弓矢、野尻下在郷の三ヶ所に設置された。しかし、現在その形態が見られるものは、弓矢のみである。

 

⑦ 清水医院

清水医院は明治30年、ひのきによる木造二階建、こけら葺屋根の土蔵造りで和洋折衷の近代的な建物であった。

院長の清水半次郎は、明治元年(1868)須原に生まれ、後上京して「東京済生学舎」で学び、内科・外科・産婦人科など医学を修め、研究に従事した後、須原に戻り開業した。

この建物は、昭和47(1972)愛知県犬山市明治村に移転復元されている。

島崎藤村の短編小説「ある女の生涯」の舞台となった病院である。作品の冒頭部分に「蜂谷という評判の好い田舎医院……」が院長の清水半次郎である。

 

⑧ 定勝寺

山号 浄戒山 臨済宗妙心寺派に属する禅寺

寺伝によると、嘉慶年間(1387-1389)に、木曽氏十一世右京太夫親豊が創建した。はじめ木曽川近くにあったため洪水により3回ほど流失し、文禄の洪水後、当時木曽を領していた豊臣家の木曽代官犬山城主石川光吉が、慶長3(1598)木曽義在の館跡に再建したといわれている。

定勝寺の建築は、桃山風の豪壮な建築様式の風をとどめること、近世初期の禅宗寺院の規模を示すものであることから、山門・本堂・庫裏の三建築とも、昭和27年に国の重要文化財に指定されている。庫裏は、昭和27年に大修理した。

山門 雨落とし石をめぐらし、自然石の上に立っていて、本柱は円柱、支柱は各柱面取りで、礎盤がはいっている。各柱の上部についている木鼻が、最もよく桃山建築の特色を現している。蟇股は表が唐獅子、裏が牡丹になっている。

 

本堂 方丈形式で裏は新しい位牌堂に接触している。入母屋造り、平入り六間取り方丈で幅広い板敷きはうぐいす張りになっており、柱はすべて大面取りである。正面の桟唐戸、渦巻き彫刻のある海老紅梁も見事なものである。

 

庫裏 入り口を入ったところは、土間と広い板の間で、大きな炉が切ってあり、上の梁から自在鍵が下がっている。天井を張らず屋根裏のままだが、木組みは堂々たるものである。書院長押上の壁の千羽鶴の絵は、大修理の時発見された。欄間も注目に値する。

 

県宝・村宝に指定されている美術工芸品あり、他に和古書・古文書多数。

                     以上 (田中昭三記 平成15)

3 宿場の面影  (中山道木曽十一宿 その歴史と文化 生駒勘七著)

 

須 原 宿 (p152)

 須原宿は、正徳年間に洪水の被害をうけ、享保二年(1717)に、現在地に移動しており、中仙道六十九駅の中で最も新しい年代に建設されたもので、宿場町の特色を最も典型的に現しているものとして貴重な存在である。

木曽川の河岸段丘上に設けられた須原宿は、町の真ん中に往還である本通りが一本通じ、これに沿って町並みが形成され、どの宿場にもみられるように、いわゆる鉄砲町の形態をとっている。

京方の入口には城郭建築に模して枡形が設けられ、鍵屋の坂といって、道が鍵型に折り曲げられ急坂になっている。急坂は江戸方の入口にもつけられヤギ坂といっている。

 こういった例は、福島・薮原・奈良井など多くの宿場でみられ、宿場町建設のうえで常即となっている。

また、町の中央往還沿いに火災予防・馬の飲用水・その他の使い水として利用された用水路が通じ、これとは別に、往還端には上水である水場が五ヶ所にほぼ等分に分散して設置されている。

町の両裏側には抜け道として利用された裏道(犬道、衣盗道)が通じ、往還とこの裏道とをつなぐ小路が適宜各所に置かれている。

またどこの宿とも同じように、川の上流から上町・本町・中町・茶屋町・四軒町と続いているが、こういった町の呼び方ほかに中央道路によって縦割に東西に二分して、東側山手の町並みを上町、西側川手の方を下町と京都の左京・右京式の呼び方を取り入れているのは興味深い。こういった例は妻籠・福島・奈良井でもみられる。

 須原宿でまず目にとまるものは、広い道路である。往還道路の幅員は五間で、中央上町よりに三尺の宿場用水を通している。上町側の道幅は一間、下町側が三間半で、これに側溝が付けられている。

慶長九年の幕府の宿場設置基準では六間とされているから、大体基準に近い幅員をとっている。地勢狭隘の木曽の他の宿では、その基準は殆んど守られていなく、宿絵図その他の記録を総合すると、普通は宿内で一間半から四間くらいまでであるから五間という道幅は当時としては、随分思い切ったとり方をしたものであることが知らせる。

 

なおこの辺一帯は、花崗岩地帯の地質であるため良質の石材に恵まれており、石材と白砂とが豊富に利用されていて、広い道路を美しいものにして、宿の景観に趣をそえている。

 

路面には、真白い小砂が敷きつめられ、踏みかためられているため、水はけがよく、小石ひとつないほどに見事に整備され舗装されたように美しいものであった。

当時大名の通行などにあたっては、いつも宿内の人員を動員して、川原から小砂を運んで敷砂がなされたものである。この風習は祭礼の際にも行われ、最近になって路面がアスファルトに舗装されるまでつづけられていたが、神輿をかつぐ若者たちはこの道を跣足で奉仕したものであるが、何等かの痛痒を感じなかったということが、この路面の良好であったことを如実に物語っている。

 

また、枡形の坂は急坂であるため、雨のたび洗い流される心配があるので、ここには花崗岩の切石を使って側溝と水切りとが完備されていた。

用水も美しい花崗岩で石積みされ、溝蓋式の石橋がところどころわたされているが、これも立派な切り石が用いられている。

 

 

 

4  橋場・大島

① 三瀬町の湯

 炭酸泉で鉄分を含み、大正の中ころまでは入湯者多数であった。かつて一軒家であった旧家は、天保のころと言われる。(「大桑村の歴史と民話」志波英夫著)

② 岩出観音(馬頭観音) (「大桑村の歴史と民話」志波英夫著 )

 定勝寺の飛び地境内である。一度焼失した後、定勝寺十九世寿村和尚の尽力によって、文化10(1813)に再建された建物であるといわれ、舞台の上のお堂は宝形(ほうぎょ)造りという。近年老朽化が目立ち、昭和58年に大修理が行われている。

 岩出観音は、木曽町日義原野の「岩華観音」 開田高原末川の「丸山観音」とともに木曽の三観音といわれ、馬を産育する人たちの信仰を集めた。

 開祖 愚堂東寔 妙心寺第137代管長 寛永五年より三度本山に務める

    大円宝鑑国師の諡号を贈られた。

 縁日 正月十七日 二月初午 お盆の十七日

岩出観音の伝説 慶安の頃

  昔一人の老人が橋場の下カシャ尾に茶店を出していたところは現在の橋場発電所辺りと伝えられている。

お堂の中には多くの絵馬(61)が奉納されており、池井祐川の「曳き馬」も見られる。   池井祐川 (江戸末期 山村家のお抱え絵師)

       狩野派に学び、人物・花鳥を得意としている。木曽代官山村良由

(九代 号蘇門)に招かれ、木曽へきて絵を描く

上松町東野の阿弥陀堂の挌天井に108枚、木曽町福島水無神社の納額、王滝村御岳神社の絵馬に作品が見られる。

この観音様の縁日にお札を出しているが、その中の一枚に馬の口取りを猿が烏帽子をかぶり、御幣を担いでいる図絵のものがある。思うに「意馬心猿」すなわち「心は狂いやすく、御し難し」をたとえたものであろう。

 

馬頭観世音菩薩

頭上に馬頭をいただいている観音像で、村内の石造物のうち一番多いのが馬頭観音像である。(180) この馬頭観音は、馬が牧草を大量に食うように諸種の悪を食いつくし、一切の障害を打ち砕き、衆生の大悲の苦しみを救うために現れた観音菩薩であるといわれている。しかし、江戸時代頃 無病息災や安全の守護仏として信仰されるようになり、やがて碑や像は死馬の供養目的で造立され墓標的意味をもつようになった。

 

 ③ 伊奈川橋 (大桑村誌 「大桑村の歴史と民話」志波英夫著)

慶長九年(1604) 徳川家康は諸藩に道路の改修を命じる。木曽においても伊奈川橋は、桟・滑川とともに「三大波計橋」と呼ばれ、街道中の難所として尾張藩としても特に留意した箇所であった。

 山村家より、伊奈川橋の管理を命じられた須原村の庄屋は農家四軒、柳屋・坂本・中田・横平をこの地に配し、農業のかたわら出水の際、橋の架けはずしに備えた。

 延享四年(1748) 尾張藩は、橋・橋台とも架け替える。「木曽路名所図会」には、「いにしえは二十七間にして閣道なり、西岸より大木を挟み三重、中間大水に架す、景は壮観なり、後世石を畳て崖とし縮めて十六間とする」とある。(山の険しいところに桟を架けて作った道)

 「中山道六十九次」の野尻宿を英泉は伊奈川橋を中央に描き、水の流れを溢れんばかりに描いている。この版画は橋の元に石垣が見られることから、後世の橋を描いたものであろうか。

 明治十九年、橋場新道が通じ、伊奈川橋も架け替えられた。(この架橋に長野区より、千人が人夫奉公し、県知事より感謝状と木杯一個贈られる。)長野公民館蔵

 しかし、大正12718日、伊奈川の大洪水により橋桁が折れるなど破損したため、橋杭が設けられなど大修理が行われている。(伊奈川橋で橋杭が設けられたのは、この期間だけである)

 この橋の少し上流部に、昭和74月 現在の永久橋が架けられた。

5  長野 

① 長野              「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

藩政時代 享保9(1724)までは須原村の支村であって須原村庄屋の支配を受けていたが、享保10年独立して、長野村と称した。

永禄5(1562)定勝寺客殿奉賀帳には「米一俵長野郷中」とあるから、室町中期ころには長野と呼んでいたと思われる。

 

② 今井ナギ崩壊による変道     「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

元禄4(1691)年末、難所今井ナギが崩壊、道明け不能により同年新道を長野村へ作り、この新道には一里塚のない旨、元禄11(1698)12月山村代官より松本藩水野隼人正あて提出されている。これは、信州一国の絵図作成にあたり、正保2(1645)の古地図のうち、管内3か所(三留野の切通し、宮ノ越より伊那へ、長野村今井ナギ)の変道を報告したもの。

 

③ 大正12年の大水害の記念碑    「大桑村誌 p555

大正13年水害一周年を迎えるを記念して一年前の痛ましかったあの惨状を長く後世に伝えんと長野地区と長野青年会で「ひんまわり」に建立した。

 

大正12710日ごろから降り続いた雨は梅雨の末期の集中豪雨となって大桑村全域を襲った。

そして、18日未明にいたり、ついに山津波が発生し村内全域に大被害が起こり惨状を呈した。特に長野・須原・小川地区では死傷者が出た。死者26名、行方不明者52名、流失家屋31軒、鉄橋流失三ヶ所・埋没三ヶ所、 堤防崩壊四ヶ所他。

 

④ 天長院        「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

 臨済宗 地久山と号する。古くは真言宗広徳寺(伊奈川菊野平)という界隈きっての古刹があった時代にさかのぼる。天文年間(153255)武田勢に従わなかったため、寺は焼き払いの火厄にあったといわれている。在家の人たちが駆けつけ、本尊弥勒菩薩・薬師如来・不動尊・大般若経600巻を運び出すことができた。

 後、弥勒菩薩は上の家(山本金寿家)で預かったが畏れ多いとのことで、山本家の山林中に奉祀された。今の伊奈川神社の創始とされている。

 薬師如来・不動尊・大般若経は、下の家(田本善之助家)に預けられたが、文禄年間(159296)に広徳寺跡に建立した天長院に移され、大般若経300巻は殿村の半坂彦右ェ門家に預けられた。不動尊は今も田本家の別室に安置されている。

 その後、街道の変遷に伴って、伊奈川の地が不便になった機に寛文年間(166173)に地蔵堂のあった現在の地に寺を移し、さらに薬師堂を建立した。

 

<子安地蔵>                 「大桑村の歴史と民話」志波英夫著

天長院入口の石段脇に石仏がある。その中に子どもを抱く小さな地蔵がある。この地蔵の寄進者は、子どもに縁が薄く、祈願の意をもって子安地蔵を造立を思い立ち、作らせたものと伝えられている。近年、「マリア観音」とか「マリア地蔵」とも言われている。

 

⑤ 高札場跡            「歴史の道調査書」

 長野中 倉谷さん方裏に石積み(6m、高さ1m位)が残っている。

 地元では、「御判ぎょう」と呼んでいる。

 

⑥ 平沢立場茶屋  「大桑村の歴史と民話」志波英夫著 「歴史の道調査書」

元禄四年(1691) 今井ナギが崩壊して通行難儀となり、中山をぐるっと廻る道が開かれ、ここに「立場茶屋」の設置が許されて、萬屋・中屋・中島屋の三軒の茶屋ができた。

萬屋 高級者の休み所であったためか、「御殿」と称した門構えで、上段の間と呼ぶ座敷もあった。

中屋 中級者の休む所

中島屋 一般民衆の休む所と、おおよそ決められていた。

 この茶屋は、明治32(1899) 大島―弓矢間に新道が開通するまで賑わいを見せた。後に須原は桜花漬けで有名になったが、その本源はこの家であると伝えられる。

 






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遠藤隆也,
Aug 19, 2011, 8:21 PM
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