4. ステージの上で金剛界マンダラを演じる
4.1 仏たちの七幕のドラマ
いままで見てきた通り、胎蔵マンダラは人間鍛練の道場を兼ねた大舞台仕組だった。そのステージでは「大日と八人の仏たち劇団」が人はどう生きたらいいのかについて序幕を演じて見せてくれた。
ドラマを通して、密教説に生きるための「四つの鍵」を示された。
精進を怠らない、とらわれを断つ、他人の苦しみを引き受ける、人々に安らぎを与える、の四つだった。
いま、胎蔵大舞台に仕組まれた鍛練の十階段をのぼってきて、ようやく、わたしたちもその鍵を身につけた。あとは、その鍵によって自分の能力と人間らしさを開いていかねばならない。
結論を先にいえば、金剛界マンダラはそのシナリオなのである。
金剛界マンダラをじっと見つめてみよう。画面がくっきりと九等分されている。
<絵> 金剛界マンダラ
九枚のパネルが並んでいるように見える。
当然、真ん中が主人公グループで成身会(じょうしんえ)と呼ばれる。四角い枠のなか一杯に円い大輪が描かれ、そのなかに五つの中輪がきっちりと納まっている。そして中輪のなかに、五体の仏の姿が精巧に描かれてある。
この成身会とほとんど同じ絵柄のパネルが九等分された金剛界マンダラの下方二段に六枚並んでいて、最上段に並ぶ二枚はちょっと特異な仏の配列になっている。
美しいが、とっつきにくさがある。
胎蔵マンダラは全体の調和といったものを容易に感じさせてくれたのだが、こちらは九枚のパネルが便宜的に寄り集まっているようで、お互いに脈絡がつけにくい。
それぞれが自分の世界を誇り高く主張している。つまり、それぞれのパネル内の仏の配置ぶりによって、密教説の生きかたを示してくれているのだ。
九枚のパネルは整理すると七つのタイプになる。
成身会(三昧耶会(さんまやえ)を含む)から右回りに見ていくと微細会(みさいえ)、供養会(くようえ)、四印会(しいんえ)、一印会(いちいんえ)、理趣会(りしゅえ)、降三世会(ごうざんぜえ)(降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)を含む)の七タイプである。
<絵> 金剛界マンダラ 密教人間七つのタイプ
成身タイプ、微細タイプ、供養タイプ、四印タイプ、一印タイプ、理趣タイプ、降三世タイプ
言い換えれば、こんなように生きていきたいものだという密教流人生のすすめを七幕のドラマとして演じて見せてくれている。
このドラマには傍観者はいない。
一人ひとりが自分の生きかたを賭けて参加してほしいと呼びかけていく。とくに胎蔵マンダラの鍛練の階段をのぼりつめて、「四つの鍵」を手にいれた者は、仏たちと七幕のドラマを共演していくことになる。
<図> 理 母性愛型 胎蔵マンダラ 中台八葉院
智 父の愛情型 金剛界マンダラ 成身会
金胎不二(こんたいふに) お互いに競争しながら、しかも、いい刺激を与えあいながら共存する
・第一幕/成身会(じょうしんえ)(三昧耶会(さんまやえ)を含む)-- 今日をみずみずしく生きる
成身というのは、文字通り「仏の身に或る」ということで、密教流生きかたのいわば究極を演じるシナリオである。
この金剛界マンダラのシナリオにそったドラマも、演じられるのは胎蔵マンダラの最上段ステージである。
この第一幕でも序幕と同じように四人の主演格の俳優がいる。
東に阿閃(あしゅく)、南に宝生(ほうしょう)、西に無量寿(むりょうじゅ)、北に不空成就(ふくうじょうじゅ)の四如来である。この四人が、真ん中にどっかと坐った大日の働きを、それぞれ分担しているのも序幕と同じだが、働きかたが違う。
ここの如来はそれぞれ四人の座員(菩薩)をかかえて、独立した劇団の形態をもっている。つまり、この成身会は四劇団の提携公演なのである。
競演でもあるから、座員の衣装にも演技にも隙がない。
阿閃の四座員は決意(発心(ほっしん))の確かさを示し、宝生の四座員は怠りなく努力(修行)し、無量寿の座員は悟りを求める心(菩提(ぼだい))をゆるぎなくし、不空成就の座員は絶対的な安らぎ(涅槃(ねはん))を得る。
さすが、つけ込むすきがないほど完璧である。
懸命に十段の修行をし、さらに密教流に生きる「四つの鍵」を得た成果が、この四劇団の完璧な演技となって報いられたことになる。
四つの鍵が、いまは「四つの宝庫」を開いたのである。
つまり自己完成した状態を四劇団競演のもとで見せてくれているのだ。楽しげで和やかで、そして表情が生き生きとしている。生きた、この身のまま仏になるということが、こんなにすばらしいことなのだと、仏たちが身をもって示している。
しかし、この仏たちも有頂天というわけではない。
まず四つの鍵を得てから、修行を重ねてきた結果として今日があることを忘れていない。大日を取り巻く四人の菩薩は、いまも四つの鍵を大事にして修行しつづけている。
それがあるからこそ、今日の充足感はあるのだし、そしてこの修行をつづけていくことにおいて、もう心の貧しい時代に帰らなくてすむ。
そのことを不空成就菩薩が保証してくれている。「目的を円満成就して空しからず」という名の仏なのだから、この仏が笑顔を向けてくれている間は、この充実した表情を保っていられるのだ。
つまり、第一幕はたゆまない働きが造り出すものの価値をもう一度見直そうとする舞台である。
なお、成身会の東隣にある三味耶会は、同じ仏で同じことを訴えているのだが、こちらは仏像の代わりに仏の持ち物だけで、それを強調して表現している。
<絵> 成身 マンダラは人生のシナリオ
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【成身会大日を囲む四菩薩】
羯磨波羅蜜菩薩(かつまはらみつぼさつ) 精進の菩薩。いい加減なところで投げ出さず、自分の目的に向かって努力しつづけるのが楽しいという状態を演じている。
法波羅蜜菩薩(ほうはらみつぼさつ) 般若(はんにゃ)の菩薩。我執(がしゅう)を断つ智恵を持つと、どんなに暮らしが明るくなるかを教えてくれている。
金剛波羅蜜菩薩(こんごうはらみつぼさつ) 菩提心(ぼだいしん)の菩薩。人の苦しみを見過ごせない慈悲心を持って向上しつづける。
宝波羅蜜菩薩(ほうはらみつぼさつ) 布施の菩薩。足るを知って、いつも恵まれない人に施すことを考えている。
<絵> 成身会四菩薩 精進の羯磨磨波羅蜜菩薩 般若の法波羅蜜菩薩 菩提心の金剛波羅蜜菩薩 布施の宝波羅蜜菩薩
・第二幕/微細会(みさいえ) -- 暮らしの模様をキメ細かく
つづいて舞台に現れた微細会の仏たちも、第一幕と基本的に変わらないが、それぞれの仏が三鈷杵を背負っている。金剛界マンダラの仏は、普通、頭のうしろと背の二箇所に光背を持っているのだが、微細会の仏に限って頭のうしろに三鈷杵の端をのぞかせている。
<絵> 三鈷杵 仏のからだと言葉と心が秘められている
三鈷杵は密教に欠かせない仏具の一つで、金剛杵(こんごうしょ)とも呼ばれる通り、ダイヤモンドのように硬くて壊れない知恵のシンボルである。
だから、毎日をみずみずしく充実して過ごそうという意志を堅く持とうと促しているのだが、それだけではない。
三鈷杵は手のひらに乗るほどの小さな仏具だが、その造形の中に深い意味がこめられていることを仏たちは訴えている。
そこに仏の智恵もこもっているし、先端が三本に分かれている部分には仏のからだと言葉と心が秘められている。
そうした形にこめられた心を知るようになると、自然界の現象、風景までもが今までとは違った受けとめ方ができるようになってくる。
花が咲いて散る見なれた光景でも、そこに仏の心が宿っているという見方をすると、太陽の光線や風や気温のぐあいまでも素直に喜べるし、花は無心でありながら、虫を誘い、花粉を運ばせ、また胞子によって種を遠くへ運ぶ。そうした営みに生命力の強さを感じる。 自然の造形と営みは、まさに微細である。
一つの無駄もなく、どれはどの不足もない。そして周囲とうまく調和している。
そういった微細さを読みとることで人生は豊かになって、いく。美しいものや調和のとれたものを讃え、やさしく細やかな心配りを感動をもって受けとめる―。
そういうキメの細かさを暮らしにとり入れることで、人生は長短の尺度だけでは計れない充実感を持つことができる。
第二幕はものにこめられた心を読むすすめである。
<絵> (自然と三鈷杵と仏)
・第三幕/供養会(くようえ) -- 感謝の気持ちを素直に表わせるか
登場してきたのは五人の如来を除くと、あとの菩薩はみんな女性の姿で、それぞれが蓮華に何物かを載せて、捧げる姿勢をとっている。
その菩薩たちの表情がいい。
真ん中の如来に対して尊敬の気持ちを顔いっぱいに表わしている。
それが供養の姿である。
普通、供養といえば仏前に金品を供えることが頭に浮かぶ。その場合でも、尊いのは金品でなく、それにこめられている敬いと感謝の気持ちである。
だから、仏前で読経するだけでも供養だし、ただ合掌するだけでも仏の徳を讃え、感謝する心がこめられていれば立派な供養である。
舞台に登場した菩薩らが捧げ持っているのも、自分の役割を象徴した品である。つまり、自分の役割を誠実に果たすことで如来に供養している。
そうした供養をすることで、誰よりもまず、供養した当人がすがすがしい気分になることができる。
ふつうは損得とか利害を先行させたり、労働の報酬として金品を与えたり、贈られたりするが、供養の場合は、そういった計算ぬきで、こちらが率先して感謝と尊敬の気持ちを表現する。
相手もまた尊敬と感謝の気持ちを返してくる。
お互いが供養しあう。
お互いが拝み合うことのすばらしさで、舞台は盛り上がっていく。
<絵> お互いに尊敬し尽くし合う
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【六種供養】
仏前に供える六種の品にちなんで、供養の心の表わし方を教えている。
閼伽(あか) 仏前に水を供える=これによって欲望を控えて、それによって生まれたゆとりを他に施す布施の働きを象徴させる。
塗香(ずこう) 両手にお香を塗る=匂いのいいお香によって得られる清浄な気持ちは約束事を守ったすがすがしさ(持戒(じかい))に通じる。
華鬘(けまん) 仏前に花を供える=花によって心が和み、腹立ちや怒りが鎮まる(忍辱(にんにく))。
焼香(しょうこう) 抹香(まつこう)を焼(た)いたり、線香を立てる=線香が一直線に燃えていくように精進する。
灯明(とうみょう) 仏前に献灯する=智恵の光となって迷いの闇を晴らしてくれる。
飯食(おんじき) 仏飯(ぶつぱん)を供える=適度の食事は心の安らぎ(禅定(ぜんじょう))をもたらしてくれる。
<絵> 六種供養 閼伽 施しの心 飯食 心の安らぎ 塗香 約束を守る 焼香 ひたむきに精進する 灯明 迷いの闇を晴らす 華鬘 怒りをしずめる心
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・第四幕/四印会(しいんえ) -- 目先の欲望にとらわれない
これまでは比較的地味なドラマ展開だった。
なにしろ登場するのが、すでに相応の鍛練を経て仏としての内容を内に蔵しているために、起伏のあるストーリーというよりも、含蓄のある展開になった。
だから澄明感が漂ってはいるか、ともすれば訴える力に欠けていた。
それをカバーしようとするのが、この第四幕である。いままでの主要俳優五人を選抜して、金剛界マンダラのさわりを分かりやすく、しかも力強く演じてみせようというのだ。
中央が大日であるのは変わりないが、東の方角から高い鈴の音といっしょに金剛薩捶(こんごうさった)【注:捶は原文では土へん】が登場してくる。まだ怠惰な心で眠っている者はいないかと、左手の金剛鈴(こんごうれい)を振りつづける。
仏の世界と人間の世界の境に位置しているだけに、まだ大日如来の教えに目覚めようとしない者がいるのが、はがゆくてならない。
鈴の音で目覚めさせ、右手の智恵のシンボルである五鈷杵を振りかぎして、さあ早く早くと促し、西にいる金剛法菩薩(こんごうほうぼさつ)も、どうしてこれを受け取りにやって来ないかと、幸せの詰まった宝の珠(たま)を前に突き出している。
「汚れた世界に住んでいるから、仏になるのを諦めているのではないか」
南の金剛宝菩薩(こんごうほうぼさつ)は呼びかけてくる。
「諦めることはない。ほれ、この蓮華を見るがいい。泥のなかに咲いて、これほど清浄ではないか」
左手で開きはじめた蓮華を見せ、右手で早く近づいて来いと手招きしている。
北から登場してきた金剛業菩薩(こんごうごうぼさつ)も、何をためらっているのかと、声量を上げている。手にした蓮華台に二つの三鈷杵がクロスされているのは、仏の働きと人間の働きが、もともと同じなのだということを示している。
だから、いつまでも目先の欲望にとらわれる愚かさを捨てて、仏の行ないをはじめるがいい。
思い立ちさえすれば、何も難しいことはないのだ。
こう説いてくる。
四菩薩の説得はシンプルなだけに、すでに同じ舞台の人であるわたしたちの耳に強く響いてくる。目にも訴えかけてくる。
迷いの多い暮らしから足を洗って、真実の智恵を身につけ、もともと心中にある美しい花のつぼみを、さあ、開かせようではないか。
手をとって引き込まんばかりである。
<絵> 四印会 金剛薩捶 鈴を振って迷いの中に眠る人を目覚めさせる 金剛法菩薩 目覚めた人に仏の知恵をさずける 金剛宝菩薩 清らかな心の花を開かせよと促す 金剛業菩薩 仏のように尊い行動をとれとすすめる
・第五幕/一印会(いちいんえ) -- なぜ仏を胸に迎えないのか
この幕では簡明化が一段とすすむ。
大日如来ひとりがステージでスポット・ライトを浴びている。
映画でいえばクローズ・アップという手法に似ている。主人公の顔が大きくアップされる。一点を見つめて動かない目、頬のかすかな痙(けい)れん……。そういった表情のアップは、どんな言葉を使っても言い表わせない心中をストレートに観客に伝えてくる。
一印会は、それに似た手法が使われている。
大日如来の大きさは茫洋として広い。表情も柔和なのだが、胸の前に結んだ智拳印は意志の堅さを感じさせる。
<絵> 智拳印 大日如来の知恵と命の総元締めとしての決意を象徴させる
しかし、からだ全休の印象は、身構えたような硬さのない自然体である。何物にも壊されることのない真実の智恵というのは、第一印象の硬さとは違って、実に柔軟性に富んでいる。
しかも、宇宙に存在する一切のいのちの総元締めである。
だから、スポット・ライトを浴びているのは一体だけだが、そこに、何もかもがひっくるめられている。
一つは、そのまま一切なのである(一即一切)。
しかし、あくまで目にするのは一体である。
一切即一でもある。
一印会の大日如来は、こういった宇宙の整いぶりの中における、このわたしの小さないのちのありかたを教えてくれている。
そして、ストレートに呼びかけてくる。
「さあ、早くわたしになるのです」
どうして、わたしを胸のなかに迎えいれようとしないのか。
こう責めてもいる。
つまり、入我我入のすすめである。
<絵> 入我我入 仏が私に入り私が仏に入る
ドラマとしては、当然、密教流の生きかたのすすめになっているが、この人我我人の教えは社会で一つの目標を持って仕事に打ち込む時にも共通する教えとなっている。
・第六幕/理趣会(りしゅえ) -- ハンディを自己表現の活力に
ここでまたステージの印象は一転する。
これまで、ずっと真ん中を占めていた大日如来が姿を消し、代わって金剛薩捶が位置を占めている。
それだけでも、舞台の趣が随分ちがってくる。
これまでは、ずっと積極的な攻めのドラマ展開だった。主人公が、まっしぐらに正道を突き進んでいく。いつも、どの場でも中心となれる生きかたのすすめでもあった。
が、人はいつも主役を演じられない。
失敗して転落することもあれば、傷ついて落ち込んでしまうこともある。競争の中で落伍してしまうこともある。
この幕では、そうした傷つきやすい要素を持ちながら、むしろそれをバネにして自己完成を深めようとしている。
宗教にかぎっていえば、そうした傷つきやすい要素、つまりハンディとは、煩悩そのものである。
<絵> 煩悩
なかでも愛欲である。
男と女の愛欲に代表されるが、自己愛も物への愛着も、広い意味の愛欲である。とくに、それは次々と欲望がエスカレートして、いつまでも満たされるということがない点で、共通している。
愛欲は正常な判断を狂わせるし、何かに打ち込もうとしても、持続力を失わせてしまう。
では、このハンディをどう処理すればいいのだろうか。
普通だと、煩悩を断つことでハンディを消してしまうのだが、マンダラのドラマはそうした方向には展開しない。
舞台では、金剛薩捶を取り巻いて四人の男が登場する。
「欲」「触」「愛」「慢」の四人である。
その間に四人の女が現われる。
「意生(いしょう)」「髻利吉羅(けりきら)」「愛楽」「意気」である。
この男女が、四組のペアを組んで演じて見せてくれるのは、煩悩の断ち方ではなく、煩悩の生かしかたなのである。
一組目は生きかたを転換する力を煩悩に求め、
二組目は没落の側に傾いたのを煩悩の力で復元させようとし、
三組目は怠けて眠りこつける根性を煩悩の力で喝を入れようとする。
四組目は煩悩の力をうまく生かすことで目的へ進む推進力をつよめていこうとする。
こうして、うまく煩悩を調御できるかどうか。
それがうまくできれば煩悩即菩提、つまり煩悩がそのままよりよく生きることにつながっていくのだ。
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【男女四組の説法】
欲・意生ペア
自分の中に秘められている力を信じて、逆境を順境へ転じる。わが身は自分本位の欲望にとらわれることが多いのだが、それを大衆のために転じることで、つまり、小欲から大 欲へ転じることで、思いがけない飛躍が可能なことを演じて見せてくれる。
触・髻利吉羅ペア
見たり食べたりしたいという感覚的な欲望の淵(ふち)にあって、いつも深くに落ち込む危険にさらされているが、内に蔵している菩提心が復元力を発揮して人間性を保っていく。
愛・愛楽ペア
男女の愛欲に溺れそうになり、物に執着しがちな人生にあって、そんな迷いと眠りに喝を入れ、正道へ導いていく。
慢・意気ペア
無知なために仮の姿でしかないものに満足し、愚かなことを自慢していたのだが、いったん正道を知ると、その道を進む力も人一倍となる。悪に強い者が善にも強いことを演じて見せてくれる。
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・第七幕/降三世会(ごうざんぜえ)(降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)を含む)-- 安きにつく心に慈悲の怒り
最後は、一見して荒々しい舞台である。
大日如来は元の位置にもどっているが、かなり怖い怒りの顔つきである。
そうかと思うと東の阿閦(あしゅく)仏グループでは金剛薩捶の席に怒りを全身に表わした降三世明王が坐っている。それだけではない。大日以外の仏は、そろいもそろってしっかりと拳をつくった両腕を胸の前で交差させている。
並の怒りようでない。
髪の毛が天を突くほど怒りのために逆立っている。
口からは牙がはみ出している。
一体、何をそんなに怒っているのか。
降三世の姿にそれを解くヒントが含まれている。
不動明王のように炎を背負い、手に剣を振りかざし、足で二体の邪鬼を踏みつけている。
そして呼び名の「三世」とは、貪(とん)、瞋(しん)、痴(ち)をさしている。つまり、降三世をはじめとする仏たちの怒りは、人の底なしの欲望と、すぐに腹を立てる怒りの心と道理を知ろうとしない愚かさを降伏させようとして怒っているのだ。
言い換えれば、髪より乱して人間の煩悩に立ち向かっているのだ。
そうまで分かっても理解しにくいことが、一点残る。
煩悩との闘いは、このマンダラ劇場の序幕以来、何度となく演じられたことであるのに、フィナーレで、なぜ、このように怒りを露骨に表わさねばならなかったのか、いままで、何度か見せてくれた密厳浄土の澄みきった世界を強調したところで、感動的に幕を引くことはできないのだろうか。
そうも思えるのだが、肉体を肯定した密教にあっては、ここまで執拗に立ち向かわないと煩悩を調御(ちょうぎょ)することはできないのだ。煩悩を引きうける密教にしてこれだから、煩悩を断てなどと言われたらどうなるだろう。
こうした荒々しいフィナーレの舞台だが、そこに見逃せないものがある。仏たちの目から漏れている慈悲の光である。
こうまでしなければ、いのちを自分の気の向くままに弾ませてしまう、人間よ。
さあ、そのいのちの力の向きを大衆の利益の側へ変えようではないか。
怒りの底に、こんな慈悲心がある。
思いやる心が強いほど、怒りの表情が強くなる。そして怒りの強いほど、煩悩をてこにした人間の生きかたが大きく弾んでいく。こう見てくると、フィナーレに仏たちがすごい怒りを見せるのも納得できてくる。
幕が降りたあと、怒りの仏と煩悩との闘いはわたしの心の中に持ちこまれていくのだ。
<絵> 思いやる心が強いほど怒りの表情が強くなる煩悩をテコにした生き方が大きく弾んでいく
【⇒次の章へ続く】