3. いよいよ胎蔵マンダラの世界へ
【参考情報】 マンダラ詳細図 http://dug.main.jp/sinma/bukkyou2.htm
用語・漢字 http://dug.main.jp/sinma/
3.1 宇宙に仕組まれた壮大なステージ
3.1.1 舞台に人間の花、いま開く
野外のステージヘ案内することにしよう。
たとえば、甲子園球場のグラウンドいっぱいに築かれたほどの大きな舞台である。
その舞台が、実は胎蔵マンダラなのである。
唐突だと感じられるかもしれないが、紙に描かれた平面マンダラを本来の立体にもどしてみると、ごく自然に舞台の形となる。
もう一度、目を細め気味に胎蔵マンダラを見てほしい。四角錐(しかくすい)の先端を切りとった形が浮かんでくる。ピラミッドの先を切り飛ばしたような形でもあるが、純粋の四角錐でなく、それは五層から出来上がった大舞台だと分かってくる。
<写真> 伝真言院曼荼羅(胎蔵界・中台八葉院)(東寺蔵)
宇宙の広大な広がりを実感したあとだから、その舞台をいくら人間サイズに縮小したからといっても、かなりの大きさが感じとれる。
間もなく開演だ。
客席について、壮大なドラマを楽しむことにしよう。
今日のタイトルは『人間の花、いま開く』で、演じるのは「大日と八人の仏たち劇団」である。
天空から下げられた幕が観客の拍手とともに開かれていく。日の落ちたあとの空には無数の星がきらめいて舞台を覆っている。というより、舞台が宇宙のなかへせり上がっているようだ。
強いライトがステージに当てられた。
まず顔見せが行なわれる。
<図> 大日如来 宝憧如来 開敷華王如来 無量寿如来 天鼓雷音如来 普賢菩薩 文殊菩薩 観自在菩薩 弥勒菩薩
劇団リーダーの大日如来が座員を引き連れて登場し、八人の座員がぐるりと輪になって大日を囲んだ。
その八人は衣装やアクセサリーに凝った者とほとんど有切れ一枚をまとっただけの者とが一人おきになっている。
大日が座員の紹介をはじめた。
布切れをまとっただけの座員から紹介をはじめた。東の宝憧(ほうどう)、南の開敷華王(かいふけおう)、西の無量寿(むりょうじゅ)、北の天鼓雷音(てんくらいおん)の四人は、いずれも「如来(にょらい)」の称号つきで紹介された。ベテランだけに、外見よりも本来の演技力で観客を魅了する主演格なのだ。ついできらびやかな衣装の座員の名が呼ばれる。東南の普賢(ふげん)、南西の文殊(もんじゅ)、西北の観自在(かんじざい)、北東の弥勒(みろく)と、いずれも「菩薩(ぼさつ)」の肩書きである。主演になる素質は十分に持っているのだが、いまは研修中で、不十分な演技を衣装とかアクセサリーでカバーして観客の目を楽しませている。
客席から惜しみない拍手が起こった。
このステージは、そのまま胎蔵マンダラの中央に描かれている胎蔵中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)である。絵としては四人の如来と四人の菩薩は静止して描かれているが、それぞれが独自の役割を持っているので、そこでは当然、仏同士の間でドラマが展開されていく。
3.1.2 全五場の序幕がはじまる
ドラマは序幕からはじまる。
第一場から第五場まで如来と菩薩の二人がペアになって展開していく。
・第一場/すがすがしい闘い (主演・宝憧(ほうどう)、助演・普賢(ふげん))
<図>宝憧如来 普賢菩薩 菩提心
菩提樹(ぼだいじゅ)の下で普賢が瞑想にふけっていると、目の前を宝憧が通りかかった。
「如来さま」
と、普賢が呼び止めた。
「武将といいますのは戦いの時には、ますのぼり幡(はた)を立てて兵士たちを統率し、幡によって士気を高めて強敵さえも打ち破ると聞いたことがあります」
「その通りだよ」
宝輪は急いでいたが、足を止めて普賢に答えた。
「如来さまはお名前からすれば、そのような尊い宝の幡をお持ちのはずですが、わたしの目には、それが見えませぬ」
普賢の重ねての問いに宝憧は微笑して、
「わたしたちは同じ戦いだとはいっても、よりよく生きるために己(おのれ)自身と闘っている。どうして武将のように目に見える幡など要るだろうか。自己を完成させようと意志を起こした者には、わたしの胸中の幡が見えるであろう」
こう答えた。
「それが……」と、普賢は苦しげな表情を見せ、「人として完成し、安らいだ境地に至ろうとする志(こころざし)を菩提心(ぼだいしん)と呼び、それが一切の行動の基本だと心得ていますのに、こうして瞑想にふけっていましても、時として魔に襲われて菩提心を失いそうになるのです」
普賢は座を立ち、宝憧如来の足元まで進んで教えを乞(こ)うた。
「嘆くでない、普賢よ。魔に襲われるたびに初心に帰れるではないか。そうしていつも初心に帰って自分のなかの魔性と妥協せずに闘っている姿は大勢の者にすがすがしさを与えるものだ。それだけでも、すばらしいことではないか」
その言葉に普賢は勇気づけられ、再び歩きはしめた宝憧を合掌して見送った。
・第二場/とらわれを断つ (主演・開敷華王(かいふけおう)、助演・文殊(もんじゅ))
<絵> 開敷華王如来 文殊菩薩
「まるで幼児のようではないか」
開敷華王は文殊の跳ねるような歩きぶりを見て、思わず苦笑をもらした。
「はい、如来さまからいただいた智恵によってとらわれの重い鎖(くさり)が外されますと、わたしの心は真実の宿る大空に舞い上がりそうでございます」
「真実は大空に満ちあふれていることを知る智恵を、さあ、早く多くの人に教えなさい」
開敷華王にうながされて、文殊はにわかに困惑の表情になった。
「まだ修行途中のわたしには、それは重荷にすぎます」
「そうではない」と、開敷華王は一本の蓮華の花を文殊に手渡した。
「そなたのなかで、よりよく生きようとした菩提心の種は芽をだし、今や花開こうとしている。ためらうことはない。とらわれを断ったそなたの生きかたそのものが教いを求める者には身近な目標となるのだ」
文殊は受け取った蓮華の花を見つめた。
汚れた泥地に育ったにもかかわらず、今、三分ほど開いた花は美しい薄桃色でかぐわしく匂っている。
文殊は改めて開敷華王の顔を仰いだ。
蓮華の花が咲き開くのを目印に修行を重ね、いまは目的を果たして苦を離れた境地にいる開敷華王は、ほどなく文殊が自分の境地にまで届いてくることを確かめていた。
・第三場/苦しみを引き受ける (主演・無量寿(むりょうじゅ)、助演・観自在(かんじざい))
<絵> 無量寿如来 観自在菩薩 苦しみはわが身に
ステージの先端にまで歩み出た観自在は下界をのぞき込んで、
「どうしてこうも苦しみ悩む者が跡を断たないのだろうか」
表情が曇る。
「それに対して、私はあまりにも無力だ……」
「観自在よ、そうまで自分を責めるでない」
いつの間にか無量寿が近づいていて、観自在の背後から、こう声をかけた。
無量寿は言葉を継ぐ。
「他人の苦しみを、わが苦しみのように受けとめて、その人のために何かできるかを問うおまえの気持ちが尊いのだ」
「でも、何も出来ないのです、わたしには。如来さま、あのように苦しんでいる者でも、いつか苦境から抜け出せるのでしょうか」
「抜け出せるとも。誰の胸にも安らいで過ごすための種が宿されている。苦しみを代わってやりたいとするおまえの悲願を受けて、きっと花開くだろう。そのとき、今の苦しみは霧散していくのだ」
無量寿の言葉は自信に満ちていた。
その表情には現実のあれこれには左右されない澄明さが漂っている。
西方のずっと遙かではあるが、人が安楽に過ごせる浄土を本拠地としている無量寿は、他人の苦しみを引っかぶろうとする気持ちがどれほど意義あることかを知っているのだった。
・第四場/目覚めの衝撃を (主演・天鼓雷音(てんくらいおん)、助演・弥勒(みろく))
<絵> 弥勒菩薩
にわかに空か曇り、イナズマが走ったかと思うと、耳をつんざくような雷鳴がとどろきわたった。
「天鼓雷音さま……」
洞窟のなかで修行していた弥勒は、その時、背を警策(きょうさく)で打たれたように感じて身を正した。つい気がゆるんで、うたた寝していたものだから、雷鳴を師の天鼓雷音の怒りの声と聞いたのだ。
「師よ、どうか姿を現わしてわたしの怠慢を叱(しか)ってください。仏法が滅んだ五十六億七千万年先に、もう一度、人類のために真実の教えを輝かせよとの命今にそって、こうして修行いたしておりますが、何分にも目標が遠すぎて、ついつい今日この時を粗末にしてしまうのです」
弥勒は、こう訴えるのだが、洞窟の外は激しい雨足ばかりで、如来の姿は現われない。
「音声をからだとされている師は、姿形を超越されているのでしょうが、わたしのように迷いを捨てきれないでいる者のために、どうか仮の姿でも現わして、その慈悲深いお顔を見せていただきたいのです」
弥勒の声が途切れないうちに、もう一つ、特別大きな雷鳴が響きわたり、
「これはおまえを叱ってのことでなく、励ましだと聞くがいい」
天鼓雷音の声が届いてきた。
「励まし……、でございますか」
弥勒には意外な師の言葉だった。
「仏法が滅んだあとに、もう一度、真実の教えを地上に輝かせて苦しみを救おうと修行するおまえの行動は、遠い先はもちろんのこと、今のいまも人々にゆるぎない安心感を与えている」
「まさか……」
「大衆を真実に目覚めさせようとする精進が、どうして人の心を打たないことがあろうか、弥勒よ」
天からの声が途切れると、雨も上がり、空に美しい虹が立った。
一瞬、虹の上に天鼓雷音が姿を見せたが、弥勒がその姿をしっかり確かめようとした時には、もう見えなくなっていた。
・第五場/宇宙と一体になる (出演・大日と八人の仏たち)
<絵>
四人の如来と四人の菩薩が輪をつくっている真ん中に、天空から大日如来が静かに下ってくる。
そのからだからは光が放射されている。
すると、どうしたことか四人の如来が姿を消してしまった。
「如来さま方は、いずこへ?」
文殊が問うと、大日が答えた。
「いま、如来たちはわたしと一体になっている。おまえたちそれぞれに如来を派遣して、修行の目標をはっきりさせる仕事が終わったからだ。そのうち、おまえたちも、わたしと一体化することで、生き通しのいのちを得るのです」
入我我入の体験を勧める。
「いえ、わたしどもはまだとても……」
普賢が尻ごみすると、文殊も観自在も弥勒も、同じく身を引いた。
―とても、まだ如来になどなれない。
その心を大日が読んだ。
「お前たちは苦しんでいる人を救えない非力さにぶつかっている。が、それがいい。非力に気づくのは菩薩として精一杯に努めているからだ」
大日は一人ひとりに慈しみの目を向けた。
「力の足りなさに悩むのは、目的がはっきりしているからでもある。さあ、いま一度、それぞれの願うところを述べてほしい」
こう促されて、四人の菩薩は順に口を間いた。
―怠け心を取り去って精進することです。
―自分のとらわれ(我執(がしゅう))を断つことです。
―人の苦しみを引き受けることです。
―人々に安らぎを与えることです。
大日は満足そうにうなずいて、
「四人の願いが一人の人間の上に実現されれば、その人をすぐに仏にすることができる。菩薩は悩みの絶えない人の半歩先を歩むことで、成仏のための身近な先輩になれるのだ。四人とも如来の座につく資格は十分だが、いましばらく菩薩として努めるがいい」
こう言ったあと、大日は微笑をたたえて、「見るがいい、わたしも今はこのように菩薩の姿であろう」とつけ加えた。
大日如来は最高位にあるにもかかわらず、この胎蔵マンダラのステージでは菩薩と同じ格好である。如来ならつけない髪飾りやアクセサリーをいっぱい身につけている。
「なぜでございますか」
弥勒が問うた。
「わたしが高い位置に坐ってとり澄ましていたら、とても即身成仏など出来ないと諦める者が現われるかもしれないだろう。だからわざと、誰もが関心のある宝石や美しい衣装を身につけているのだ」
白銀の光は温かさをともなってステージいっぱいに広がり、さらに客席のほうにまでも届いてきた。
序幕は四人の菩薩が人間完成の四つの条件を演じてみせたところで終わる。
精進を続け、我執を断つことの二つは上求菩提(じょうぐぼだい)といって自分自身の鍛練であり、人の苦しみを引き受け、人々に安らぎを与えることの二つは下化衆生(げけしゅじょう)といって社会への奉仕を指している。
この四つが密教流に生きていく鍵なのだと示したところで序幕は終わった。
つぎは第一幕だ、と期待をかけるところだが、ステージのようすがおかしい。座員が退場せず、観自在菩薩が大日如来に何かを、しきりに頼み込んでいる。
そのせりふを聞いてみよう。
「世間では多くの者がいろいろの問題にぶつかって苦しんでおります。こうして演じて見せただけでは、とてもまだ真実に目覚めて苦しみから逃れることができそうもありません。客席の一人ひとりを、このステージにまで導き上げて、ともどもに悟りの道を歩みたいのです。どうか大日さまの深い慈悲のお心で彼らに、このステージまでのぼる道を指し示していただきとう存じます」
こう懇願している。
そういえば、密教の世界には本来、ステージと客席の区切りはない。演じる者と鑑賞する者といった区別もない。
密教社会ではだれもが主役なのだ。
手をこまねいて傍観してはいられない。わたしが菩薩となってドラマに参加してこそ本来なのだから。
大日は観自在の要望に大きくうなずいた。
すると、どうだろう。ステージを照らしていたよりも、もっと強い照明が蓮華台のステージを支えている四角錐の土台を圧倒的なスケールで浮かび上がらせた。
<絵> 大日如来
土台には無数の仏たちが生き生きと息づいているのだ。
―これが胎蔵マンダラだったのか。
あらためて感動させられる。そして、よく見ると、その土台には、しだいに上方にのぼっていくための十の階段が仕組まれている。さあ、早く階段をのぼりつめて、ステージでともにドラマを演じようと誘いかけているようだ。
3.2 心の階段をのぼっていく
そんなわけで、これからしばらくは、第一幕から座の一員として共演するためにステージヘの階段をのぼっていくことになる。ステージの菩薩と同じ程度の心境に達するように、いわば心の階段をのぼっていくのだ。
平面図として描かれている胎蔵マンダラを立体として見ると、それは五層からなっている。
一番下の基礎に当たる第一層は外金剛部院(げこんごうぶいん)。
その上の第二層は文殊院(もんじゅいん)、除蓋障院(じょがいしょういん)、蘇悉地院(そしつじいん)、地蔵院(じぞういん)の混成。
第三層は釈迦院(しゃかいん)と虚空蔵院(こくうぞういん)の二つ。
第四層は遍知院(へんちいん)、金剛手院(こんごうしゅいん)、持明院(じみょういん)、観音院(かんのんいん)の混成。
第五層はドラマを演じるステージ、つまり中台八葉院。
<絵> 胎蔵マンダラ 五輪塔
<写真> 醍醐寺五重塔
こうなっている。
それぞれの院にゆかりの仏たちが位置についている。
南インドのヒンズー寺院では、これによく似た塔門(コープラム)を見かける。なかでもマドライのミナクシ寺院のものは壮大で、長方四角錐の高い壁面いっぱいにヒンズーの神や生き物が創造土の意志通りにぎっしりと彫刻されている。
もしかすれば胎蔵マングラの原形がそういったものかもしれない。
宇宙が目で実感できやすいようになっている。
なにしろ密教で五層(五重)はなじみ深い。
その最もシンプルな表現は五輪塔(ごりんとう)だが、すでに述べたように宇宙を構成する五つの大きな要素が大地、水、火、風、虚空である。これに意識が加わって六大となるのだが、ここでの意識は演じられるドラマの中身ということになる。
わたしのからだにも五つの要素がある。
わたしの五大を宇宙の五大に重ねるつもりで、目の前に用意された心の階段をのぼっていくことにしよう。いねば心の宇宙への旅である。各層にいる仏たちに導かれて最上のステージまで、十の階段をのぼる。最上限のステージで菩薩たちとドラマを共演できるまでに、しだいしだいに自己の内面を鍛えていくことになる。
3.2.1 人間に生まれた意味を問いかけてくる(第一層)
第一層は最外院(さいげいん)と呼ばれて大地に接しているので、そこの仏たちも、わたしたちと同じ地上に足を置いて、東西南北にあるそれぞれの門から、地上を行く人を招き入れる。
いわば密教を広げる最前線だから、役割も多く、それにともなって仏の数も多い。
マンダラに登場する仏の数は、そのマンダラによって多少の増減があるが、第一層の仏は普通、二百一体である。
門をくぐって出会う順に仏の役割を紹介してみよう。
<写真>北門
警備班
門をくぐってくるのは密教を生きる指針にしようとする人ばかりではない。敵意をもって密教を破壊しようとしてくる者もあるので、武力に秀でた闘争的な仏たちが要所要所に配属されている。
ほとんどがヒンズー教の神から転身してきており、一見しただけでは、こんなに荒っぽいのを仏の仲間に加えていいのかと案じるほどだが、マンダラ集団に参加してからは手当たりしだいに乱暴を働く残忍さはなくなり、持ち前の力を密教の守護に発揮するようになっている。
のちには、もっと成長して人間の幸福を積極的に守る仏となっていった。たとえば警備の代表的な仏である毘那夜迦天(びなやかてん)【注:毘の原文の漢字は田へんとつくりが比】は日本では歓喜天(かんぎてん)となって男女相愛の功徳をもたらす仏として広く信仰されている。また、摩訶迦羅天(まかからてん)は大黒天となり、福をもたらす代表格として七福神に加えられている。
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【代表的な警備の仏】
<絵> 毘那夜迦天
毘那夜迦天(びなやかてん) 魔性集団の王として、はじめは仏教修行者を誘惑して悪業を働いていたが、密教の世界に仲間入りしてからは、その力を魔障の排除に振り向けるようになり、貢献度が高い。頭が象でからだが人間という異形の姿で、四本の手には剣や斧といった武器をもっている。
<絵> 摩訶迦羅天 大黒天
摩訶迦羅天(まかからてん) もっぱら破壊を仕事にして、血肉を好んで食べたことは、そのすさまじい姿からも想像できる。黒いからだで三つの顔、六本の腕を持つ。二つの手で象の皮を背にはおり、二つの手で剣を横たえて持ち、残る二つの手で牡羊の角と人間の髪の毛を吊リさげている。そのうえ、ドクロを身の飾りにしているのだが、やはりこの攻撃的な破壊力をマンダラの守護のために発揮することになった。
<絵> 羅刹天
羅刹天(らせつてん) 悪鬼の王者である。右手に剣を持ち、左手で剣の印を結ぶ。女性の姿で表現されるが、その性質は狂暴で破壊と滅亡を司り、やはり肉を好んで食べた。しかし、そのエネルギーを善行に転じて警備の役を全うしている。
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渉外班
ただ武力でマンダラを守るだけでなく、密教を求めてくる人に和やかな印象を与え、密教が身近で親しいものとして受け入れられるように相談の窓口になったり、いろいろと楽しませる仏たちである。
こう見てくると、第一層の「警備」「渉外」の二班の仏たちは、犬切なものを守るには武力にでも訴える気迫と、協調したり相手を利する和合の心との両輪が必要だと説いている。
剛と柔、戦と和。
この両端のいずれにも偏らず、ほどよい均衡を保つことで貴重なもの、たとえばマンダラとかいのちとかを守り通せることが仏の配置からも読みとれるのであり、それは仏教の中道精神とも合致している。
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【代表的な渉外の仏】
<写真> 西門
九曜(くよう)、十二宮(くう)、二十八宿(しゅく) これはインドで古くから行なわれていた天体信仰をそのまま、マンダラの中に取り入れたもので第一層の東西南北のどの面にも数多く配置されている。人間の吉凶は天体の運行と深く結びついていると信じられていたので、密教もそれを積極的に採用して入門者と共通の広場をつくろうとした。
<絵> 弁財天
緊那羅(きんなら) 釈迦に教化された民間信仰の神で、他の七神とともに八部衆(はちぶしゅう)と呼ばれる。鼓と太鼓を打ち、歌を得意として音楽によって人を楽しませ、和やかな交流を実現させた。このほかにも舞いを見せる楽天(がくてん)、琵琶を弾く弁才天(べんざいてん)、横笛を吹く歌天(かてん)など、音楽舞踊にかかわる仏が多い。
<絵> 難陀龍王
龍王(りゅうおう) 大海に住んで水を司るインド古来の神で難陀龍王など霊力を持つ八大龍王がよく知られている。この龍王が東門を除く、他の三方の門の脇に配置されている。水といえば万物のいのちを支える基本だけに、密教がさまざまな形で人々に現世利益を与えつづけたことを、水の恩恵に託してうまく広報させている。
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第一層のもう一つの役割現に注目しよう。
教化班
第一層に入ることで、人は何をどう学べばいいかを教える、一番大事な役割を負っている。
これは班を編成しているというより、すべての仏が、この役を背負っている。
入門者が、どの仏に出合って導きを得るかで、いくらか教わる内容に変化があるかもしれないが、基本は変わらない。
ここでは、モデル・ケースをたどってみることにしよう。
そこで第一層の仏たちを、改めて見回してみると、南面の西寄りの一角が気になってくる。
夕暮れ時のように薄暗い。
まるで人目にさらされるのを嫌がっているようだが、そうなるとなおのこと見たくもな
る。目をこらすと、ドキリとするほど鬼気迫る姿が飛び込んできた。ほとんど全部の仏は
蓮華模様の台座に坐っているのに、一体だけ、まるで汚いもののように地面に投げ出され、転がっているのがいる。
<絵> 死鬼(しき) わしは実はお前の本当の 姿なのだ
頬は落ちくぼみ、からだけ骨と皮だけで、足首のあたりは腐りはじめたようで黒ずんで見える。
死の相がはっきりと現われている。
不思議な力でわたしを引きとめ、
「わしは、実はおまえなのだ」
喉からしぼり出したような声を俗びせてきた。
これは死鬼(しき)なのだ。
誰ひとり死をまぬがれることはできないし、死は明日にでもやってくるかしれないのに、いつまでも生きつづけられるように、毎日、快楽を求め、ただ欲望を満たすために生き、それによって周囲の人と衝突したり、自分の心身の調和を乱して苦しんでいる。
一つのものが手にはいると、すぐ次のものが欲しくなる。欲望に限度はないのだが、なかでも一番に強い欲望は「死にたくない」ということである。
しかし、これだけは絶対に手に入らない。
どうあがいても求められないものを求めて人は苦しみ、そして空しく一生を終えてしまいかねない。それならいっそ、「人は死すべきもの」という真実に肝(はら)をすえて、人間に生まれたことを感謝しながら生きていこう。
釈迦が悟りという形で自分を完成させたスタート地点はここにあった。
死鬼は数多い仏たちのなかで、地面に転がされた見すぼらしい一体だけなのだが、何気なく毎日をすごしている者に圧倒的なインパクトを与えてくる。
わたしもまた、この死鬼との出会いをスタート地点にするほかない。けれど、釈迦をまねられないつらさがある。
釈迦は人間としての欲望をほどよく抑えることで自分を完成させたが、この肉体が生きているかぎり、どうしても欲望に引きずられてしまうので、死んで欲望の火が消えてしまわないことには、釈迦の到達点に至れない。
それだと、この人生は空しくあがき苦しむだけのものとなってしまう。からだが生きていて、それで欲望を抱えたままで釈迦の得た悟りの状態を実現できないものだろうか。
これはごく自然で素朴な問いである。
それに対して、はっきりと「実現できる」と答えているのが密教であり、胎蔵マンダラの四角錐のステージ台に仕掛けられた十段の階段が、そこへ至る道筋なのである。
その階段に足をかけよう。
・第一段/そんなにしたい放題でいいのか -- 欲望に拡大鏡を当てる
第一の階段で出会う相手も、やはり南面西寄りの隅にいる。死鬼から三体の仏をはさんで東隣に同じく薄暗がりがあり、そこに八体の飢えた人間の姿をした群れがある。
それを毘舎遮(びしゃしゃ)という。
<絵> 自分さえよければ……
食血肉鬼の別名がある通りに、飢えているので手当たり次第に何でも口にする。よく見ると奪い合うようにして人間の腕や足を食べているのだ。
餓鬼(がき)そのものである。
普通は餓鬼といえば生前に善くない行いを重ねたために死んで地獄に落ち、お椀に盛ったご飯を食べようとすると炎になって食べられず、泉に来て清水を飲もうとすると濃い血となってしまう。地獄絵でなじみ深い姿だが、これは多分に善い行ないを勧めるための方便であった。
ところがマンダラのなかの餓鬼、つまり毘舎遮は、もっと現実的な迫力をともなっている。
<絵> 毘舎遮(びしゃしゃ)
自分の空腹を満たすためなら生きた人間を殺し、その肉を食う。そんな動物のようなことが人間にできるはずがないと、眉をしかめる。その通りではあるが、では他人の心を踏みにじってしまうことがないかと聞かれたら、あると答えるほかない。
弱い立場の人をいじめないにしても、見捨てて自分の世界を築いてしまっていないだろうか。
男女の関係にも節度を保っているだろうか。
自分に都合が悪いからといって荒っぼい言葉を吐いていないだろうか。自分の利益を守るために嘘をついたり、お上手を口にしたことはないだろうか。
どれも人間らしい道に迷った結果である。
迷いのまっただなかにいると、愚かしい行動を繰り返し、腹を立てることが多く、そして次つぎと欲望のままに、したい放題に生きていく。その結果がよくなるはずはないのだが、結果が悪いのを人のせいにして自分は反省しない。
こんなあさましい状態になるなど考えてもみたくないのだが、人間の手足にむしゃぶりついている毘舎遮の姿はいやおうなく、わたしのなかに巣くっている欲望に拡大鏡を当てて見せつけてくれる。
実はそれが毘舎遮なりの説法なのである。
一般の仏教だと、こういった動物的で利己的な欲望は悟りの邪魔だとして即座に抑え込もうとしがちだが、密教は肉体を肯定しているので、この種の欲望がどれほど醜くても、わが身に引っかぶっていくしかない。
といっても欲望を放任するのではないから、まず自分の欲望に突き動かされている姿をはっきりと見つめることを怠るわけにはいかない。
つまり第一段は、毘舎遮に出会うことで、自分の煩悩の現われ出た姿から顔をそむけない肝を固めるステップなのである。
<絵> 閻魔(えんま)
・第二段/ほんの少し欲望を控えてみると -- 足るを知って足りない人に与える
ついで第二段にのぼると、いきなり拏吉尼天(だきにてん)にぶつかってしまった。
マンダラのなかでは毘舎遮と先の死鬼の間にいる三体の仏で、両脇が薄暗いだけに拏吉尼天が、ことさら明るく浮かび上がって見える。もちろん、蓮華台に坐った、ふくよかな姿からしても仏らしく見えるのだが、どうしたことだろう、第二段で出合った拏吉尼天は三体のうち中央の仏が右手につかんだ人間の足をかじっており、左手には引きちぎられた人間の腕を握っている。そして両脇の仏は人間の血を盛った皿を手にしている。
これなら、やっていることは飢えた毘舎遮と同じではないかと、当然の疑問が発せられるだろう。せっかく二段目までのぼって来たのに、これでは第一段と同じく自分を見つめることなのかと反論が出るかもしれないが、拏吉尼天は毘舎遮とは違っている。
拏吉尼天も人を殺して、その肉を食していたのだが大日如来に厳しくとがめられてから
善神となった。
人を殺して食うことを止めたかわりに人の死を半年前に知る術を授かり、死んだのちに食するようになった。
人の肉を食するというおぞましさにかけては毘舎遮と変わりないが、この拏吉尼天は自分の空腹を満たすために人を殺すという貪欲な行ないをしない。
欲望を、ちょっと控えている。ほんのちょっとだけれども、欲望を控えたことで人のいのちを生かしつづけた。このことで拏吉尼天は仏の座をつかんでいる。
それどころか、日本では福神として信仰されるまでになった。
<写真> 毘舎遮、摯吉尼天、死鬼
<絵> 仏心
人はだれでも心のなかに仏性を持っている。仏性とは仏のような安らいだ心になれる性質(素質)である。自分を十全に発揮した大輪の花を咲かせるための種である。
この種が毘舎遮の場合は凍てついたままだったが、摯吉尼天の種は生きていて皮が割れ、小さいながらも双葉が芽生えた。
人間らしい心の芽が出てきた。
第二段で摯吉尼天と会ったということは、この仏の芽をこちらの心のなかにも芽生えさせようということである。
ちょっと欲望を控えてみることで、思いもかけず足元が明るくなってくるのを体験することになる。毘舎遮はものごとの道理がわからずに欲を突っ走らせて、その結果、四方を闇に包まれて先の見通しなど全くなかったが、摯吉尼天は欲望にブレーキをかけることを知って実行したために、行く先にわずかながら光がさしている。
とくに摯吉尼天の心の状態で特徴的なのは、欲望を控えめにすることで手元にできた余りものを、恵まれずにいる人に与える喜びを感じることである。
足るを知って、余分になったものを見返りを期待しないで、足りない人に与える。
たとえば月一度でも、家族の夕食を質素なものにして、それで浮いた材料費を難民を救済する資金にカンパする。そうすると、おいしいものを食べたかったのにという不足感をカバーして余りあるすがすがしい喜びが感じられてくる。
摯吉尼天が福の神になったのは、控えめを軸とした、そうした内心の転換があったから
である。
・第三段/いつまでも母の膝にとどまれない -- 仮の安らぎを蹴って真実へ
いくらか心が軽くなって三段階目へ進む。
こんどは東面に回って、東門の近くで大梵天(だいぼんてん)に出くわして大きな影響を受けるごとになる。
<絵> 大梵天
大梵天は、そう目立つ仏ではない。
四つの顔と四本の腕を持ち、独鈷戟(とつこげき)という槍状の仏具、蓮華、水瓶(みずがめ)を手にして静かに坐っているのだが、この仏の前身はヒンズー教の最高神ブラフマンであった。
ヒンズー教といえば、今でもインドの人口の約八割が信仰しており、人は必ず生まれ変わるという輪廻(りんね)の考えが柱になっている。この世の階級は不遇であっても、その立場で役目を忠実に果たすことで、つぎの世では、より上の階級に生まれ変わろうとする。
よりよく生きようとして、人間を超えた力にすがろうとする。
超能力が身につくとか、神の先に照らされると苦しみの元が溶解するとか、辛い立場にいると、こうした誘いに乗りたくなってしまう。
ワラをもっかみたい心境はよく分かるし、ヒンズー教にしても道徳的に暮らすようになるのは悪くないのだが、自分を変えるための鍛練を自分の心身に課すということをしない。
宿命に甘んじる気になれば、つらい努力もいらないので気楽ではある。ちょうど母親の膝に乗っている幼児のように、なんの不安も苦しみもなく安らいでいる。
幼児にとって母親は仏である。
が、人はいつまでも母親の膝に安んじておれないように、仮の安心にいつまでも浸ってはおれない。
第三段の心は、こうした段階である。
人間を超えた力を信じるというのは宗教心の始まりで、動物めいたものがちらついていた一、二段と違って、ここでは人間らしさがただよっている。
しかし、ここに留まってはいられない。
大梵天は押し出すようにして、つぎの段へと促してくるのだ。
ヒンズーの最高神でありながら、自分の宗教世界を強要せず、控えめにしているあたりに、かえってマンダラの次の展開に期待を持たせる。
こうして一段の毘舎遮、二段の摯吉尼天、三段の大梵天と階段をのぼりながら仏たちとの出会いを重ねていると、人間の心のありようが、しだいに高まってくるのが分かる。
このまま、第十段までのはりきれば、あるいは菩薩たちと人間完成のドラマを共演するのも夢ではないという気になってくる。
実は、この十段は空海の主著「十往心論(じゅうじゅうしんろん)」にそっている。
<絵> 空海 「十往心論」
そこでは、動物のような一番低い心から最高位の密教的人間の完成までを十の段階に分けて具体的に説いている。密教の絵図による理解に力を入れた空海は、当然、マンダラのなかにも人間完成の十段階を読みとっていたのではないかということで、「十往心論」とマンダラをクロスさせながら話を進めている。
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【「十往心論」とは】
空海が五十七歳でまとめた書物で正式には「秘密曼荼羅十往心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」という。
密教の原理に基づきながら、空海が唐から帰国して以来、進めてきた密教の日本化の集大成である。
朝廷が仏教各派に教義をまとめて提出せよと命じたのに応じて出来だのだが、そうした いきさつを超えて、日本密教の根本論書としての内容を持ち、これによって真言宗成立の 論拠がつくられた貴重な書物である。
「住心」というのは心のありようというほどの意味になる。
この「十往心論」にそうと、ここまでの第一段は第一住心/異生羝羊心(いしょうていようしん)(動物のように欲望のままに動く心)、第二段は第二住心/愚童持齋心(ぐどうじさいしん)(子供程度に控えめを知る心)、第三段は第三住心/嬰児無畏心(えいじむいしん)(母に抱かれた幼児のように恐れを知らぬ心)にそれぞれ当てはまる。
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3.2.2 自分を磨いて世界を広げていく(第二層)
<絵> 仏教への入口
ここで第二層にたどりつく。
第一層の三つの階段をのぼってくることで気持ちはずいぶんと軽くなったが、この第二層から、やっと仏教の心身鍛練に入っていく。これまでは道徳の範囲で、宗教らしい段もあったが、まだ迷信の域を出ていなかった。
ここにたどり着いて第一の印象は仏たちの配列が非常にシンプルだということである。
いろいろな役割を持つ仏たちで混み合っていた第一層に比べると仏のたたずまいに余裕があって、すっきりしているので、つい深呼吸したくなるほどである。仏の世界の整いぶりに確かに一歩近づいたという実感がある。第一層で芽ばえた仏性は、ここでなら大きく
育つだろうという、うれしい予感もある。
この第二層の仏といえば、
文殊院(もんじゅいん)、除蓋障院(じょがいしょういん)、蘇悉地院(そしつじいん)、地蔵院(じぞういん)。
この四つのグループからなっている。
<絵> 文殊院 蘇悉地院 除蓋障院 地蔵院 仏心
仏たちは、こう主張している。
文殊院と蘇悉地院はタイアップして「学びつづけることで智恵を確かなものとし、迷いの霧を晴らそう」と訴え、除蓋障院と地蔵院はタイアップして「感受性を磨くことで他人の悩みをわがことのように哀れみ、煩悩の障害をお互いに取り除こう」と呼びかけているのである。
そのことを二つの階段をのぼりながら、出会う仏たちに具体的に問うていこう。
・第四段/ものごとにとらわれ過ぎない -- 問う姿勢が真実への扉を開く
この段にのぼれば、東にある文殊院に足を運ぼう。二十五体の仏たちがグループをつくっている中央に文殊菩薩が普賢と観音の二人の菩薩を両脇に従えてどっかと坐っている。
文殊が髪を五つに束ねているのは大日如来の五つの智恵をすでに得ていることを示し、左手にしている青蓮華(しょうれんげ)上の五鈷杵(ごこしょ)は智恵がやすやすと壊されるほどもろくもなく、しかも鋭いことを語っている。
三人寄れば文殊の智恵と呼ばれるだけのことはあるのだが、智恵を誇るのは文殊の本意でない。
文殊は訪れて来た者に、自分がこれはどの智恵を身につけることができたのは、経典に象徴される釈迦の教えを積極的に聞き、それを実行したからだと告げて、その姿勢こそが大事なのだと教えてくれる。
文殊は悟りの母(覚母(かくも))と呼ばれることもあるが、それも、こうした求め、聞く姿勢の確かさにある。
<絵> 釈迦如来 おおきな耳でよく聴く 文殊菩薩 どう生きるかを問いつづける
自分に都合のいいことにしか耳を貸そうとしなかった前段からすると、かなり高い心境である。
この第四の段階を空海は「十往心論」のなかで唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)としている。
真実なるものを見つめる智恵が身につくと、一切の物は原因と条件が整って形をつくっているだけであって、もともとの本性はないということが分かってくる。
物にとらわれなくなると、苦しみも薄らいでいく。
文殊院とタイアップしている蘇悉地院は、もう一段上の虚空蔵院(こくうぞういん)の分家だという説があり、中心仏が本家に行って留守なせいか、もう一つ、性格がはっきりしないが、この世にある一切は、もともと固定した本性がないと分かったときの、とらわれがなくて澄んだ、虚空のような心境を、来訪者に授けようとしているとみて間違いない。
<写真> 文殊菩薩と仏たち
・第五段/自然は啓示に富んでいる -- 感受性をみずみずしく保つ
第二層のもう一つのチーム、つまり地蔵院と除蓋障院のある階にのぼろう。
それが第五段である。
二つの院はそれぞれ九体ずつの仏が北と南に一列に並んでいるのだが、どうしたことか、除蓋障院の主人格、除蓋障菩薩が地蔵院のなかにまぎれ込んでいる。
それほど二つの院は、お互いに行き来が自由で親しい関係ということになるだろう。この院の仏たちの気さくな性格までもが感じられる。
地蔵菩薩といえばお地蔵さんと親しまれ、子供を守り育てる守護仏のように受けとめられている。釈迦の教えが衰退して、つぎに弥勒菩薩が現われて人を救い始めるまでの仏不在の時代には、自分一人でも大衆を導いていこうという強い誓願を立てている。大衆のみんなが仏とならないかぎり自分も如来にはならないとする。
<絵> 地蔵菩薩
顔だちの柔和さからは、とても感じとれないほどの激しい誓いを自分の胸の中に秘めている。ともかく非常に感受性が鋭くて、人の苦しんでいる姿を見るとじっとしておれないのだ。
そして、どんな事態になってもじたばたしない。
安易に人を当てにしない。
地蔵という名にしても、大地のように不動で安定して、他の言動に左右されない思慮深さを秘蔵しているからだという。
豊かな感受性と不動の独立心。
ここまで地蔵の性格を分析してみると、そこが「十往心論」にいう抜業因種心(ばつごういんしゅしん)(迷いの原因を断つ心)に当てはまることがうなずけてくる。
<図> 除蓋障菩薩
除蓋障院の仏たちも、文字通り人間の苦しみをつくる障害物をことごとく除いてやろうとしていることで、地蔵と同じである。
しかも、強引さがない。
訪れた者の目を、まず自然界に向けさせる。
感受性を研ぎすまして自然界をみると、そこには人生の真実を教える姿がいろいろに秘められている。
そこから何が真実で、何が人を苦しめるかをともどもに学ぼうと呼びかけてくる。
<絵> 自然は教師
3.2.3 相手を思いやるゆとりを待つ(第三層)
ついで第三層にのぼっていく。
かなり高くまで来たという感じがある。見下ろすと第一層の仏が小さく見える。上をうかがうと、最上限の音楽が聞こえてきそうだ。
それだけ、人間的な鍛練を経てきたということになる。
ところで、この層は形がいびつである。
四面に均等に仏たちが並んでいるのでなく、張り出し舞台のように東と西に仏の座席がせりだしている。
東のほうが釈迦院で、西が虚空蔵院である。二院しかないが、顕教の主尊といえる釈迦如来のグループと密数的な虚空蔵菩薩のグループが向かいあっているのがおもしろい。
やはり二つの院に上りの階段が用意されている。
<写真> 虚空蔵菩薩と仏たち
・第六段/与えることによろこびを感じる -- 施(ほどこ)して見返りを期待しない
第六段の階段は虚空蔵院につづいている。
この虚空蔵院は、ちょっと賑やかである。
中央の虚空蔵菩薩の上方に並んだ十波羅蜜(じつぱらみつ)菩薩の十人が全員、口を開いて大声で叫んでいる。
迷いの世界から悟りの世界に至る修行の仕方を、まるで歌うように説いている。
たとえば檀波羅蜜(だんぱらみつ)菩薩は恵まれない人に施すという方法(布施(ふせ))を説き、戒波羅蜜(かいはらみつ)菩薩は約束事を守るという方法(持戒(じかい))を説くといったぐあいである。
あと四つ、大切なことを説いている。
忍辱(にんにく)-耐えていく、精進(しょうじん)-目的に向かって努力を続ける、禅定(ぜんじょう)-心を鎮めて真実を見る、智恵(ちえ)-正しくものを見て判断する。
あわせて六つを普段の生活のなかでも実行しようと、声を張り上げているのだ。
ついで気になるのは北の千手千眼観音(せんじゅせんげんかんのん)と南の金剛蔵王(こんごうざおう)の二菩薩である。
<絵> 虚空蔵菩薩 千手千眼観音
この仏たちも忙しげである。
からだつきからして千手千眼観音は千本の腕と千の眼を持ち、金剛蔵王菩薩も十六の顔、百八の腕を持っている。
手を伸ばして救わねばならない人は無限だというわけである。
大車輪で救済活動を展開しているが、めざすのは、一人ひとりを澄みきった虚空のように、さえぎるもののない自由自在な境地に導くことである。
その状態を虚空蔵が蓮華台の上で静かに示している。これが、「十往心論」の第六住心/他縁大衆心(たえんだいじょうしん)(一切のものはもともと実体がないと知って、とらわれのなくなった澄んだ心を他の人に振り向ける)なのである。
この段階にいると、広隆寺の弥勒菩薩の、あの微笑仏の世界を連想してしまう。形のある何を与えられるわけでもないが、こちらの気持ちが豊かになってくる。
・第七段/極端に走らない -- 暮らしにほどよい緊張を
釈迦院にのぼっていく。
第七住心/覚心不生心(かくしんふしょうしん)の世界である。
これまでは、階段をのぼるたびに一切の物事は因縁によって形をとっていて、固定した実体はないと繰り返し説得され、それによって物事にとらわれる苦しみから自由になった。
この段では、それを発展させて自分に対するとらわれからも自由になる。
<絵> 釈迦如来
釈迦院に来て心が和むのは三十八の仏のほとんどが釈迦のほうへ顔を向けていることだ。信頼しきって、いまにも説法を待ちかまえている顔つきである。
それはわたしたちの姿でもある。
しだいに老いていく。病気にかかる。そうした苦しみは生きていること自体の苦しみを増し、先には死の苦しみが待っている。その上に愛する者とも別れねばならないし、反対に気にいらない者と生活をともにしなければならない。欲しいものは思うように手に入らないし、自分にこだわる限り何もかもが苦になっていく。
四苦八苦というが、その通りの現実である。
この苦しみから逃れで出ようとあがいて、かえって自分を失ってっしまうほど打ちのめされるのだが、釈迦はその苦しみを、いったんは身にひきかぶってしまう。
現実の一切は苦だと認識する。
その上で静かな瞑想によって解決していく。一切の物事に固定した実体が無かったように、この苦しみも原因ときっかけによって生じている。それを空(くう)といい、原因かきっかけかのどちらかが消滅すれば苦から自由になれる。
苦行に溺れず、そうかといって放逸に流れず。そうしていて「一切は空なり」の真実にたどりつけと釈迦は説いてくる。
<絵> こだわり→四苦八苦→一切は空なり
3.3.4 自分の心をありのままに見る(第四層)
もう第四層に至る。
ほとんど人間的な完成が実現する層だけに、仏たちの配置も整然としている。ここにも二段の階段があるのだが、それに足をかける前に、全体の構成を頭に入れておこう。
<絵>第四層
南面と北面にそれぞれ二十一体ずつ仏が並んでいる。
南側が金剛手院(こんごうしゅいん)で、ほとんどの仏が右手に五鈷杵(ごこしょ)を持っている。五鈷杵は原形が武器で、仏具に転じて智恵のシンボルとなっているが、ここでは再び武器に返ったほどの鋭い闘志を感じさせる。
一方、北側は観音院で、柔らかい。武力ではない、仏たちは手につぼみの蓮華を持っている。表情もこころなしか心をこめた説得によって邪念を払わせようとしている。
<絵> 観音院・遍知院 和平派 たとえ時間がかかってもねばり強く説得していこう
金剛手院・持明院 武闘派 ほんとうは武力に訴えたくないのだが人を正しい方向に向けるには一時的に武器を使うことも辞さない
<写真> 遍知院の仏たち(左より、七倶胝仏母、仏眼仏母、一切遍智印、大勇猛菩薩、大安楽不空真実菩薩)
持明院の仏たち(左より、降三世明王、大威徳明王、般若菩薩、勝三世明王、不動明王)
この硬と軟は、西面の持明院(じみょういん)と東面の遍知院(へんちいん)の関係にも見られる。
持明院の不動明王は剣と綱と炎で煩悩を鎮めようと怒りの表情をとっていたが、ここでの降三世明王(ごうさんぜみょうおう)となると怒りは、もっと露骨である。どんな魔性もやっつけずにはおかない勢いを持つ。大威徳(だいいとく)、勝三世(しょうさんぜ)も同様に、硬派の代表格である。
一方の遍知院の仏は、もっぱら智恵の光を来訪者の心の中に届けて邪念の繁殖しやすい闇をなくそうとしている。煩悩が暴れだす前に退治しようとして闘志はあるが、静かである。
硬と軟が、それぞれに特技を生かして人間の最後の鍛練に余念のないのが、この層の特徴である。
<絵> 戦 剛 和 柔
・第八段/だれも等しく、心は清浄だ -- お互いに尊敬し、尽くし合おう
第八の階段は観音院へのびている。
そこでの主尊、聖観音(しょうかんのん)の前に出て教えを聞こう。
観音は「観自在(かんじざい)」ともいう。文字通り、一切のもののありのままの姿を観ることが自由自在ということであり、「観音」とは名を呼んで救いを求める者の音声のほうを振り返って見るということである。
<写真> 聖観音
そういった観音の姿勢に、少しの気取りもない。
したい放題の自分を見つめた第一段から、この第八段まで、自分の煩悩と物事へのとらわれと懸命に闘ってきて、聖観音の前でほっと心の安らぐ思いがする。
ありのままにしているのが、結局、一番値打ちがあるものとして認められているからだ。煩悩を控えて、一切が空だと見る修行の果てに、ありのままの尊さにたどりついた。
随分、回り道をしてきた気がする。
だけど、こうして苦労して階段をのぼってくることで、人の心はもともと清浄なもので、みんなが等しく成仏できるということに理屈を超えて共鳴できるようになる。いわば絶対的な平等にからだが目覚めるのである。
空海は、この心境を一道無為心(いちどうむいしん)と名付けている。
<図> 一道無為心 蓮華の花はもう開きはじめた
静かに瞑想することで自分もまわりの人も、それに宇宙全休も、もともと清浄なのだと知ることができる。こうして自分の心をありのままに知ることができれば、それはもう悟りと呼んで差し支えない。
・第九段/宇宙の一切に仏のいのちが宿る -- 人間の意志を超えた調和がある
自分の心をありのままに見ることができて、そして清浄さにおいて、ありのままであることが宇宙の真実と同質だと分かれば、それで、もう十分なのだが、はたして、その認識が本物であるかどうか、ここで念を押されることになる。
わたしという一人の人間が大きな宇宙的な規模の秩序の中に位置づけられ、しかも宇宙的な規模の中に溺れてしまっていないか。わたしというのは小さな一点だが、澄みきった池の面が万物を映すように全休をきちんと視界に納めているかどうか。
<絵>
第九の階段は、そのことを確かめるために遍知院真ん中の奇妙な造形物の前にのびているのだ。
仏の坐る蓮華台と光背(こうはい)はあるのだが、肝心の仏の姿がなく、代わりに炎を上げる三角形が台の上にある。
これはいったい、何なのか。謎めいている。
釈迦が人滅したあと、釈迦を慕う者が記念の像を彫刻しようとしたが、それはおそれ多いとして仏像をやめて、象徴的な足跡を石に刻んで師をしのんだ。
一切遍智印(いっさいへんちいん)と呼ぶ謎の炎の三角形は、それに似ている。
何物にも届く仏の智恵を表わしたいのだが、それを仏の姿にすると、どうしてもその姿に固定してとらわれてしまうので、あえて三角形に単純化して、一切万物のなかに仏の智恵が宿っていることを訴えようとしているのだ。
<絵> 草も木もリスも仏の命をもっていて尊い
一木一草にいたるまで一切の物に宿っている仏の智恵を感じ取れるか、その智恵によって一切が調和している宇宙と自分の宇宙を重ねることができるか。
そう問うている。
それができる心境を極無自性心(ごくむじしょうしん)という。
<絵> 極無自性心
3.3.5 わたしでしかないいのちが息づく(第五層)
こうして、いよいよ最後の第五層にたどりつく。
はじめに序幕が演じられたステージそのものである。
が、蓮華台は厚いので、もう一つ、階段をのぼらないことには舞台に立てない。
「よくここまでのぼってきましたね」
ステージから観自在菩薩が身を乗り出して歓迎してくれる。
客席の一人ひとりを、舞台に招き上げて、ともに人間完成のドラマを演じたいと大日如来に提案して認められ、それにそって観客が舞台にまでのぼってきたのだから観自在としては嬉しくてならない。
「さあ早く、最後の階段をのぼって舞台に立ちなさい」
観自在は手をのべるようにして第五層にかかっている第十段の階段をさし示した。
・第十段/仏とは安住しない心である -- 仏の心にも餓鬼は住みつづける
この階段は、ごく短い。
が、のぼりながら感慨が胸中をかけめぐる。そう、頂上を目前にした登山家の心境なのだ。
長い道のりだった。
動物のように欲望を抑えられなかった毘舎遮との出会いからスタートして、足るを知り施す喜びを教えてくれた摯吉尼天。そこで少しは人間らしくなり、大梵天に会って宗教心も芽生えたのだが、それは一時的な安らぎでしかない幻覚に魅せられていたのだ。文殊に会って、やっと仏法の入り口に立ち、地蔵から感受性を磨いて自然界から無常の真実を学び取ることの大切さを知らされた。
道半(なか)ばだったこのときには、自分一人の安らいだ気持ちになるのが精いっぱいだった。
ところが虚空蔵に出会って、物事の一切は因縁で成り立っているだけで、固定した実体はないと教えられて、それで眼からウロコが落ちた。心は自由になり、大衆を救うことに心を砕きはじめ、釈迦によって自分へのとらわれさえ消し飛んでしまった。
そうした仏教本流の教えは聖観音によっていっそう、磨きをかけられた。すべての人は等しく仏になれるという確信から、お互いに拝み合う関係を広げ、一切遍智印では宇宙にある一切の物に仏の智恵が宿っていることを知らされ、ありのままの調和の美しさに感動して生きるすべも学んだ。
<絵>毘舎遮 動物みたいにしたい放題
摯吉尼天 足るを知り人に施す
大梵天 宗教心にめざめるが仮の安心に溺れる
文殊菩薩 まじめに仏法を聞き教え通りに生きようとする
地蔵菩薩 豊かな感受性で自然の中に真実を見る
虚空蔵菩薩 すべての人の救済に心くだく
釈迦如来 一切のものも自分ももともと空と知って苦をまぬがれる
聖観音菩薩 人はひとしく仏になれると知って尊敬し合う
一切遍智印 すべてに仏の知恵が行き届き調和していると知る
大日如来 自分らしさを十分に発揮し自己完成し生きがいを感じる
振り返ると、ひそかな誇りがある。
よくぞ、ここまでのぼりつめて来たものだ。
自分のなかの汚い部分は、古い衣服を脱ぎ捨てるように、さっぱり下方の世界に置いてきた。どこかで、自分は聖者になったような感じがしないでもない。
<絵> 大日如来 自己完成
普通の仏教、つまり顕教では第九段が最高の境地だったのだから、そういう気分になってもおかしくはないのだが、短い階段をのぼって最上層に立った瞬間、聖者ぶった境地とは異質なものを味わうことになる。
これが、客席から見たときに輝いていたステージなのか。のぼりつめた瞬間は、それなりの感動がある。なにしろ、ここは密教の浄土である。念願であった自己完成を達成して、菩薩とともに人間開花のドラマを共演することができるのだから。
その通りではあるのだが、決して浮かれた気分になれない。
この生きたからだのままに成仏できたわけだが、それも固定したものでなく、怠け心を起こしたら、たちまちに第一段の毘舎遮のもとまで落下していくのだ。
一般仏教でも「悟れるに悟りなし」という。
<絵> 悟れるに悟りなし
自分は悟ったと思った瞬間、一つの立場に固執したことになり、それはもともと固定したものはないという無常の真実に逆らったことになるのだから。
その点、密教は最高の心境に至っても、やはり肉体に備わった煩悩を内包しているから、なおのこと「悟った」と早合点することは少ない。なにしろ、餓鬼と二人づれなのである。
いつ転落するかしれない危険をはらんでいるのだ。油断ならない。
ただ、密教の悟りが他の悟りと似ているのは、醒めているというところである。
最高の心の位に達しても煩悩の殼を被っているかわり、餓鬼のような状態にあるときで
も、仏の要素はきっちりと備えている。それが分っていると有頂天になれないかわりに、仏にまで見放された絶望感に落ち込むこともない。
自分の心が餓鬼に引きずられているか、仏に引きずられているかを醒めて判断する。そうした心中のせめぎあいの果てに、絶妙の均衡を得る。それは大日如来と一体化することで、自分を超えたところから届けられる力が加えられて、はじめてつかめる心の状態である。
醒めた爽快感がある。
遠くから届いてきた大日の智恵の力をからだに迎えて、自分らしい生きかたを十全に表現できてくる。いつ餓鬼の側に転落するかもしれないという危機感は、このときには善く作用して自己完結、自己表現を盛り立てるバネになってくれるのだ。
【⇒次の章へ続く】